第3話:幸せな日常
エバはマルタの部屋を訪れた。マルタは車を近くに付けていた。そして車には用心棒の男もいた。
エバは大柄な男を見て怯んだが、大丈夫だとマルタに言われ、車に乗り込んだ。
マルタの家は食神の民の、そういう仕事をしている中で最も大きい組織の一つの本部だった。
周りの大人から、非常に怖い組織だからここだけは近づくなと口酸っぱく言われていた場所だったので、エバの脚は震えた。
マルタの部屋は見たことないほど清潔で整頓されており、亡くなった夫の写真が飾られていた。
「知ってるかもしれないけど、抗争で死んでね、それからは私が一人で息子たちとこの組織を守ってきたの」
マルタは赤ん坊の抱き方から、オムツの替え方、あやし方まで、丁寧に教えてくれた。
「布おむつね、仕方なかっただろうけど、お尻がかぶれてるわ。ここにいる間は紙おむつにしなさい」
エバは必死にメモを取りながら、マルタの話を聞いた。この小さな命を守るために、何でも学びたかった。
それを見たマルタは言った。
「うちの組織で働きなさい。証拠隠滅の仕事よ」
マルタはエバが人生で初めて出会った恩人だった。
◇◇◇
マルタの紹介で、エバは証拠隠滅組織で働くことになった。
仕事は一件あたりの報酬は高かったが、頻繁にあるものではなかった。
おかげでエバは大抵いつも赤ん坊と一緒にいた。
マルタが表の仕事にしている不動産のアパートの一室を借りることができたエバは、その部屋を赤ん坊のために整えた。
部屋は決して広くはなかったが、これまでの廃墟と比べれば天国だった。
床には清潔な絨毯を敷き、窓には明るい色のカーテンをかけた。
後ろ暗い金ではあったが、盗んでいないものを赤ん坊に与えることが出来た。
エバが最も心を込めたのは、部屋の一角に作った赤ん坊の遊び場だった。
仕事が終わると必ず古道具屋に寄った。木製のガラガラ、手触りの良いぬいぐるみ、色とりどりの積み木。
どれも決して新しいものではなかったが、エバが一つ一つ丁寧に選んだものだった。
「こんなにおもちゃがあったら、きっと楽しいでしょうね」
エバは赤ん坊に話しかけながら、おもちゃを並べた。
赤ん坊はまだ遊ぶことはできなかったが、カラフルなおもちゃを見て手足をばたつかせたり、口に運んで噛むマネをしたりした。
その反応を見るだけで、エバの心は満たされた。
赤ん坊は日を追うごとに愛らしくなった。
ころころと笑い、小さな手で空気を掴もうとし、エバの顔を見つめては「あー」「うー」と話しかけてくる。
柔らかな髪の毛は絹糸のようで、産毛のある頬は桃のように滑らかだった。
眠る時の小さな寝息、起きた時にエバを見つけてにっこりと微笑む瞬間。
エバにとって、この子の存在は奇跡そのものだった。
勿論良いことばかりではなく、辛いことも、苛立つこともあった。
瞬間的には叩きそうになったこともある。
しかしその小さな体を腕に抱くと、不思議と何もできなくなった。
代わりに、胸の奥からじんわりと温かい感情が湧き上がって、守りたいという強い想いと涙が溢れた。
やがて赤ん坊が歩けるようになると、エバの後を必死についてまわった。「ママ、ママ」と呼んでくれる小さな声は、エバの心を溶かした。
転んで泣いた時も、怖い夢を見て震えた時も、子供はエバの胸に顔を埋めて甘えた。エバが仕事から帰ると、「おかえり!」と言って飛び込んできてくれる。
子供はいつもエバが帰ってくるのを待ち望んでいた。
その頃には、エバは子供のために小さな本棚も作っていた。
絵本を数冊買い揃え、毎晩読み聞かせをした。
子供は絵本が大好きで、同じ話を何度もせがんだ。
エバは喜んで、何度でも読んであげた。
子供の笑顔を見ることが、エバにとって最大の幸せだった。
◇◇◇
風向きが変わったのは、赤ん坊が五歳になった頃だった。
内戦が勃発し、治安が悪化した。




