ブーケトス
今、明かされる人魚の生態。
これは『渚にて』の後日譚です。
もし、そちらをまだ読まれていないのでしたら、そちらから読むことをお勧めします。
亜麻にもし脚があったなら。
あたしはきっと亜麻に譲ってただろう。だって、かわいい妹なんだもの。亜麻にはいちばん幸せになって欲しいんだもの。
亜麻の気持ちはわかってた。
でも亜麻は人間とは種が違う生物なんだもの。どうしようもないんだもの。
ごめんね、亜麻。あたしばっかり先に幸せになっちゃって。
だからあたしはこれを誰にも投げなかったんだ。
「美波。ブーケトスしなかったんだな。」
「ん。これはどうしても受け取ってほしい子がいて。ね、綾人。空港に行く前に、車、お店の前通ってほしいんだけど。」
「あ、そういうことか。でも、いるかな?」
「来てくれてるはずだよ。式の日伝えておいたし、あの磯の近くの道通るから来てって言っておいたもん。」
はたして。
亜麻色の髪の娘が、岩場の陰の目立たない海の中にいた!
あたしを見つけると亜麻は手を振って、他の誰かにはわからないように「ぴい」と海鳥の鳴き声のような声だけを出した。
「亜麻! 受け取れ!」
あたしは力いっぱいブーケを投げる。
いいダンナ見つけるんだぞ。
いっぱい幸せになって、そして、約束どおり子ども連れて見せに来い!
= ブーケトス = Aju
わたしは渚で拾われて、アヤトさんと美波姉ちゃんに育てられた。
美波姉ちゃんが晴れてアヤトさんのお嫁さんになれたとき、わたしは本当に嬉しかったんだからね。
大好きな美波姉ちゃんは、その日わたしにブーケを投げてくれた。
わたしだって知ってるよ。ブーケトスの意味。
でも。
さすがの美波姉ちゃんも気がついてなかったでしょ。
そのトスの、本当の意味——。
わたしはずいぶんと大きくなってから、産みの母親に、わたしの本当のお母さんに再会した。
お母さんはずっとわたしを探していたんだって。
1つだけ「糸」を離れて流されてしまった卵を——。海流に沿って何度も何度も行き来しながら。
そしてあの海で、あのビンを見つけたんだって。
お母さんは、人魚の国に帰ろう、と言った。
いいえ、その時はわたしは人魚の言葉はわからなかったけど、お母さんが一緒に帰りたがっていることだけはわかった。
ずっと探してくれていたことも。
わたしはわたしのいるべき場所に帰らなくては‥‥‥。いつまでもアヤトや美波姉ちゃんに甘えてばかりいちゃダメだ。——と、そう思った。
2人がずっとわたしを隠しておくのは難しいだろう。
人魚の国にも興味があった。
それは、美波姉ちゃんが読み聞かせてくれた絵本のような世界だろうか。それとも、まったく違った世界だろうか。
そして、わたしはあの店に別れを告げた。
人魚は、人の住まない島をいくつも渡り歩くようにして暮らしていた。
ずっと海の中にいるのではなく、島の湾や小さな川の岸辺の岩なんかに寝そべって、歌を歌ったりおしゃべりしたりしている。
海藻の生い茂る場所を拠点にするから食べる物には困らなかったし、育ち盛りの子どもたちのために魚を捕まえる罠も作っていた。
基本、人間みたいに服は着ない。
泳ぎにくいし、あまり必要でないからだ。
サメなどに比べて泳ぐスピードが遅いし、そこに動きにくい服など着ていたら海では命に関わるからだ。
だから、美波姉ちゃんにもらった「水着」はみんなの注目の的になった。
「それ、どうやって作るの?」
と人魚語で聞かれ、わたしはたどたどしい覚えたての人魚語で答えるしかない。
「わからない‥‥‥」
だって、美波姉ちゃんが作ってくれた。
どうやって作るかは聞いてこなかった。
第一、ここには「布」がない。
そして。
人魚という生き物について、これがいちばん大事なことなんだけど——。
人魚にはオス(男性)がいない。
人間にはオスとメスがあって子どもが生まれるけど。
では。
人魚はどのようにして繁殖しているのか?
これを聞いた時が、わたしは一番ショックだった。
わたしたち人魚は成長して成体になると、鱗の生え際から20センチほど下に小さな縦の裂け目ができる。
わたしにもあの店を去る少し前、それができて少しだけ開くようになった。
すると、わたしの中にそれまで経験したことのないような奇妙な疼きが湧き上がってきて、それも、あそこにいちゃいけない、と思うようになった原因の1つだったのだ。
それが、ニンゲンのオスから卵に必要な精を採るための器官だと知った時のショック。
そして、そのやり方を知った時のショック。
人魚特有の声で「歌」を歌い、それに魂を奪われて海に落ちてきたニンゲンのオスを、皆で寄ってたかって‥‥‥。
ひどい!
そのあとしばらく、わたしは食事もまともに喉を通らなかった。
これが‥‥、アヤトさんが不思議がっていた、進化論的に人魚がこの形に進化した理由———。
昔は今みたいな船じゃなかったからオスを狩るのも簡単だったし、オスがそのまま溺れても知らん顔してたんだ。とお母さんが茶飲み話みたいにそんな話をした時は、わたしは泣きそうになった。
そんなの‥‥‥。
人間の男と女だって、子どもを作るためにはそういうことをするけど‥‥。でも人間は、ちゃんと愛し合ってるよ?
そんなの、愛じゃないよ!
今は‥‥。とお母さんは言う。
船が沈んで漂ってるようなニンゲンしか手に入らないけどね。
わたしも!
わたしもそんなふうにして生まれたの?
おまえは優しいんだね。おまえを育ててくれたニンゲンがきっと優しかったんだね。
今はそんな酷いことはしないよ。
近くにゴムボートや浮き輪があれば、用事が済んだらそれに乗せて岸の近くまで運んでゆくのさ。何もなくても溺れないように上を向けて皆で引っ張ってね。「歌」を聞かせながらね。
ニンゲンは「歌」を聞かせていれば朦朧としてるから、岸で気がついてもよく覚えていないから。
わたしたちの「歌」には、いろんな歌があるんだよ。誘い出す歌。意識を朦朧とさせる歌。サメなんかの動物の感覚を狂わせる歌。
わたしたちは見つかったら、弱いからきっと狩られてしまう。だから見つからないようにそうするんだよ。
おまえの言うとおり、父親を殺してまで生まれてくる命ではありたくない。というのは母さんだってそう思ったよ。
でもわたしたちの村では、今はそんな酷いことはしていないんだよ。ずっとずっと昔の話さ。ただ父親には記憶されないというだけ。
人魚はね、繁殖の機会が極端に少ないから、早く成長して寿命が長いんだ。お母さんのお母さんに当たる世代なら、その日本の岸まで運んだヤマダさんのことを覚えている人がいるかもしれないねえ。
わたしは、ずっと考えていた。
オス狩りにはついて行かなかった。
ねえ、母さん。
本当に好きな人の子どもだけ欲しいと思うことはないの?
あのニンゲンのことかい?
さあ‥‥。わたしにはわからないけど、おまえがそう思うなら、おまえの考えで行動したらいいんじゃないのかい?
わたしは今、日本のあの場所に向かって独り泳いでいる。
潮に乗って、何度も通った危険の少ない海の道を。
日本は今、夜。
そう。
海に帰ってからも何度か通った道。
美波姉ちゃんに、アヤトさんに会いたくて。
あの人魚の村に、わたしはどうしてもイマイチ馴染めない。あの野生味あふれる暮らしに。
それは、きっとアヤトさんや美波姉ちゃんたちと暮らした洗練された生活が、わたしのベースになってしまったからだ。
でも、わたしのこの体は人間の世界で暮らしてゆくには、あまりにも不都合な体だ。
場合によっては危険さえある。人間の世界も決していいことばかりでないことはある程度知っている。
わたしは、人魚の世界にも人間の世界にも属しきれない中途半端な存在なのかもしれない。
それでも、生まれた以上は幸せを求めていいんだ。 と教えてくれたのは美波姉ちゃんだった。
美波姉ちゃんはわたしにブーケトスをくれた。
やがて、美波姉ちゃんとアヤトさんの子どもが生まれる。
そしてきっと、美波姉ちゃんはわたしにその子を会わせてくれるだろう。
その子は目をまん丸にして言うんだ。
「人魚? 本物の人魚?」
「そうよ。」とわたしは微笑んであげる。
そんなふうに考えていたら、知らないうちに涙があふれていた。
そのブーケトスの意味。
さすがの美波姉ちゃんも想像しなかっただろうな。わたしだって、想像しなかったもの。
わたしは真っ暗な海を進む。
やがて夜のとばりの向こうに、岸辺の県道沿いに建つ懐かしい実家の明かりが見えた。
お店はもう閉まっている時間のはず。
アヤトは1人で店の片付けをしてるんだろう。下ろされたロールカーテン越しに動く人影が見える。
今、美波姉ちゃんは出産のために実家の方に行っている。
その時を選んだのは、さすがにわたしだって美波姉ちゃんの目の前でアヤトさんを誘い出すなんて、そんなこと‥‥‥。
ごめんね。美波姉ちゃん。
アヤトさんの奥さんは、美波姉ちゃんだけだよ。あたしにたとえ脚があっても、あたしは美波姉ちゃんに譲ったよ。
だって、美波姉ちゃんには誰よりも幸せになってほしいから。
アヤトさんは本当に優しい人だから。
でも。1回だけ。
1回だけ、アヤトさんを貸してね。
それだけでいいから。それはわたしが人魚だから。
いつか約束どおり、子どもたちを連れてここにくることができたら——。その時には、本当のこと全部話すから。
わたしは大きく息を吸い込み、そして、窓の明かりに向かって魂を込めた「歌」を歌った。
アヤトさん。ここに来て!
「ぴいいいいいるるるるるぅ!」
了