条件
「………………」
部屋に入ってから、少し、待つ。
……何も、変化はない。
いや、感じないというべきか。
すでに何か、重要な何かを忘れているかもしれない。
「まずは、壁に書いた文字を確認しよう。ミシェル君は、口紅の回数を数えてくれ」
頷いて、ミシェルさんが自分の肖像画を外す。
出てきたのは、口紅の跡が2つ。
そのとなりに新しくつけて、これで3つになった。
「左の部屋にきたのは、これで3回目よ。私の記憶と一致するわ」
全員が頷く。
この部屋に来たことは、誰も忘れてはいない。
今度は白石さんが肖像画を外した。
白い壁に箇条書きされた記録を、全員で読む。
「…………どうやら、探索時の記憶も、奪われてはいなさそうだ」
確かに、壁に書かれた記録と、僕たちが覚えている記憶は一致していた。
今のところは何もない。
記憶を失ってもいないし、思い出してもいない。
だけど、そんなことがあり得るか?
法則が違っているのか?
何か、見落としているのか……?
それとも本当に、何もないのか……?
探索時の記憶は奪われていないが、別の記憶を奪われている可能性もある。
「待って……、思い出したわ。前回の記憶よ。感情の肖像画をすべて揃えたら、死んだわ」
「えっ」
ということは、やっぱり肖像画は、揃えちゃダメだ。
にしても、なんでミシェルさんだけが、新しい記憶を思い出したんだ?
「――ッ! みんな武器を構えろ! 部屋の隅に固まれ! 何かいるッ!」
唐突に、白石さんが叫んだ。
そのまま素早く、左手の指輪をクルクルと回す。
するとその左手に、銀色のレイピアが握られた。
緊迫した声で指示され、僕たちは部屋の隅を背後に、4人で固まった。
だけど、何が何だか分からない。
だって、何もいない。
この部屋には、肖像画があるだけだ。
他には何もない。6畳の、殺風景な空間だ。
だけど白石さんの目線は、あっちこっちに飛んでいる。
その表情も真剣だ。
「なんなんだよ!」
ザンさんが言いながら、両の拳を突き合わせる。
すると彼の両手から肘までが、みるみる内に黒くなって、見るからに硬質化する。
肘からは岩のような突起が50センチほども生えてきた。
「え? 何? なにッ? どこにッ?」
次に動いたのはミシェルさんだった。
傘を前方に突き出し、カチカチッと何かを押すと、傘が2つに分離した。
左手には傘の上部を盾のようにかかげ、右手には紅い柄がついた細い剣を持っていた。
どうやら傘が分離して、剣と盾になるらしかった。
ミシェルさんが僕の服を強引に引っ張り、傘の盾の内側へと移動させる。
「わけ分かんないけど! 多分、あなたが一番、死んじゃダメ!」
「お前、武器もねえのか! ミシェルと一緒に俺の背後に回れ! 守ってやる!」
「ドアを守れ! ドアを背後にッ! 唯一の逃げ道を占領されたら、終わりだッ!」
前を向いたまま、白石さんが叫ぶ。
4人全員でゆっくりと移動して、部屋全体が視界に入るように唯一のドアを塞ぐようにして、ぴったりと背中をくっつける。
「……どうして? 一体、何を思い出したんですか?」
僕の質問に、白石さんが青ざめた顔で警戒を続ける。
「君たちは、思い出していないのか? この部屋に、見えないモンスターがいる! 私たち4人は、そいつに全滅させられた!」
「全滅? わたしたち、4人ですって?」
盾を構えながら、ミシェルさんが怪訝な顔で訊いた。
「本当に覚えていないのか。いまここにいる全員が、すでに死者だ。部屋に入るなり、君たち3人は見えないモンスターに首を切断されて即死した。幸い、私は腹部を貫かれただけで一命をとりとめたんだ」
白石さんの言葉が理解できない。
あれ、待って。……3人? え、僕も……?
「待った。それならなんで、私たち生きてんの? ……服や鎧だって、破れてないし……血痕もないわよ」
「血痕は吸収されたんだろう。君たちが生き返ったのは、私が霊薬を使ったからだ。仲間全員の状態を、5分前に戻すって霊薬をな。……取って置きの薬だったが、使ったら瓶ごと消える代物だ。手元には一滴たりとも残ってはいない。もう、回復手段がない。――敵は不可視だが、音は聞こえるはずだ。こちらに致命傷を与えられたのなら、物理的にも存在している。防御はできるはずだ。みんな、耳を澄ませるんだ。なにか聞こえないか?」
言われて、耳を澄ませる。
だが、聞こえてくるのはキーンという耳鳴り。
それと、自分の息遣いと、心臓の音。
それ以外には、気配も音も感じない。
6畳の部屋がまるで広く、遠く感じた。
何もないように見える空間に目をこらし、肖像画が動いていないか、周りで音がしないか。
――緊張しながら、神経を張り詰めさせる。
…………こんなに緊張しているのは、人生で初めてかもしれない。
ミシェルさんが、声を押し殺して言う。
「……本当にいるの?」
「…………確認しよう」
レイピアを構えたまま、白石さんがスーツのポケットに手を入れた。
取り出したのは、砂の入った小瓶だ。コルクを抜き、その長い腕を縦に、横に、斜めに、何度も振るう。
銀色と茶色の砂が部屋中に飛び散り、壁に当たっては落ちていく。
それが、どの方面に撒かれた。
「…………どうやら、いないみたいだ」
「ふうぅ……」
緊張が解かれ、思わずへたりこむ。
「それで? 思い出したのは、私たちが全滅した記憶ってこと?」
剣と盾を構えたまま、ミシェルさんが問う。
「ああ。入ってすぐだった」
「…………その霊薬って、持っていることを思い出したの?」
「間一髪でな。思い出せなきゃ、私もそのまま死んでいただろう」
「その霊薬、本当に持ってた?」
「………。………どういうことだ?」
「……私が思い出したのは、4つの肖像画を揃えたら死んだっていう、過去の記憶よ。でも――」
警戒を解き、ミシェルさんが剣と盾を合体させて傘にもどす。
「最初にこの部屋に入ってきたとき、私の肖像画は2枚だった。多分それは、過去に描かれていたから。前回すべて揃えて死んだというのなら、この部屋の私の肖像画は、すべて揃えられているべき――矛盾しているわ。……それに、過去に得た情報だけでは、私は肖像画を揃えようとは思わない。前回までの私が、すでに肖像画を揃えて死んでいるというのは不自然よ」
「……つまり、第2フェーズで得た記憶は、ウソだと?」
「ええ」
自信たっぷりに、ミシェルさんが言い終えた。
でも、そうか。そういう可能性もあるのか。
確かに疑って考えれば、矛盾がある。
さっき撒いたばかりの砂は、もう1粒たりとも残っていない。
この部屋に吸収されたんだ。
だとすれば。
「たしかに血痕や頭髪はすぐに吸収されるのに、霊薬を使っている間、僕たちの死体だけが残っていたのは変です。さっき話してくれたローラさんのご遺体も、すぐに消えてしまったと言っていたのに……。都合よく霊薬を使うまでの間、僕たちの死体だけが吸収されなかったとは、考えられません」
白石さんの記憶が本当なら、入室してすぐに僕たちは死んだ。
そのあと、白石さんが腹部を貫かれた。
その間に、僕たちの死体は吸収されているべきだ。霊薬とやらを使う暇なんてない。
しかも、使ったら瓶ごと消える代物ときた。
一見それは、使ったからもう持ってないとも考えられるけど……。
第2フェーズがウソなら、初めからそんなものは存在していない、だから持っていない。
そういう考え方もできる。
「……なるほどな。あり得る話だ。納得もできる」
指輪をくるくると回して、レイピアをしまってから、白石さんが続ける。
「しかしなぜ、ウソの記憶を思い出したのは、私とミシェル君の2人だけなんだろうか」
「俺ぁ、なんにも思い出してないぜ……?」
すぐに考え付くのは、僕とザンさんがやっていなくて、白石さんとミシェルさんがやった行動がトリガーになっているという可能性だ。
僕たち2人はそれをやっていないから、“まだ”ウソの記憶を思い出していない。
もしくは単純に、僕たち2人には何もないか、もしくは何か、忘れているかだ。
まずは、入ってからの行動を思い出してみよう。ドアを開けたのは白石さんだ。
だけど、ミシェルさんは開けてない。
ドアを閉めたのは僕だ。ってことは、トリガーはドアノブを触ることじゃない。
そのあと、ミシェルさんが肖像画を持って、白石さんも――。
「2人とも自分の肖像画に触っています。白石さんは、過去の記録を読むために。ミシェルさんは、この部屋に来た回数を確認するために」
「きっかけは、自分の肖像画を触ることか。なるほど。たしかに、ザン君とカゲフミ君は触っていないな」
「……どうする? 俺たちは、肖像画に触らない方がいいか?」
恐る恐ると言った様子で、ザンさんが問う。
それを、ミシェルさんがピシャリと否定した。
「いいえ。触った方がいいわ。危険なら止めたけど、ウソの記憶を思い出すってだけなら、話が別よ。嘘をつくってのは、高度な知的作業よ。ただ生きてるだけなら、そんなことはしない。やっぱり、この部屋には意思があるのよ。そうでなければ、ウソの記憶で私たちを惑わせるなんてこと、しないわ! 意思があるなら、狙いと目的がある。となればおのずと、ついた嘘から知られたくない情報が……クリア方法が、見えてくるはずだわ! 隠したいウソが何なのか、私たちは、知る必要がある!」
腕を元の形にもどして、ザンさんが頷く。
「俺たちを貶めるはずのウソの毒牙が……逆に、俺たちにとってヒントになるってことか。よし、それじゃあ俺は、触ってみるぜ」
言いながら歩いて、ザンさんが自分の肖像画を手に取る。
「…………、なにも思い出さねえぜ?」
「思い出すきっかけが肖像画を触ることだと、確定したわけではありませんし……。2人が思い出したときもタイムラグがありました。そんなにすぐ思い出さないんじゃ……?」
自分の哀しみの肖像画を取りながら、そう答える。
でも僕の考えが正しければ、これで何かを思い出すはずだ。
思い出せ、思い出せ。
「……はっ。ビンゴだ、カゲフミ。思い出したぜ、俺ぁ」
肖像画をもとの位置に戻して、ザンさんに振り向く。
「あの右の部屋にあった各々の数字……あれは、この異界を彷徨っている回数じゃねえ。この異界に来てから犯した、罪の回数だ。……ウソの記憶って言ったな? たしかに、お前ら2人が思い出した記憶はウソかもしれねえ。矛盾があるからな。でもよ、俺らが思い出す記憶までウソだと、確信をもって言えるか? どうやって確かめる? 第1フェーズじゃカゲフミだけが記憶を忘れて、俺たち3人が過去の記憶を思い出した。今回だけは、与えられる影響が全員同じだと、証明できるのか?」
……確かにあのとき、僕だけが記憶を失った。僕だけが。
もしかしたら4人のうち1人だけ無作為に選ばれて、他の3人とは違うルールが適用されているのかもしれない。いや、他とは違うのが、1人とも限らない。
白石さんとミシェルさんが思い出した記憶はウソでも、僕とザンさんが思い出す記憶は本物かもしれない。
第1フェーズのときは、記憶を思い出す3人と、忘れる者が1人いた。
第2フェーズが、全員でウソの記憶を思い出すのではなく……。
ウソの記憶を思い出す人たちと、本当の記憶を思い出す人たちで、別れていたら?
すべてがウソだと、決めつけてはいけないのかもしれない。
そう考えていると――、とたん、僕は思い出した。
“3人を殺し、唯一の生存者になること”それが、この異界のクリア方法だ。
テレビを調べているときに、そうテレビ画面に書いてあったんだ。
そうだ、僕はあのとき、恐ろしくて言えなかったんだ。
ふと、ザンさんと目があった。
「…………カゲフミ、お前は、何を思い出したんだ」