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時を刻む夢

作者: 宵待 黒

夕焼けを隠す厚い雲による雨が降りしきる中、彼が出ていく。

ドアのきしむ音が耳にこびりついて離れようとしない。

この扉が閉まってしまえば、閉まってしまったならば。

もう二度と、元には戻らないのだと感じた。

いや、もうすでに戻れない段階まで来てしまっているはずなのに。

たった一秒でさえ、今では長く永い時のように感じられる。

秒針の刻む音が響く。

扉から漏れる光が、どんどんと狭く細くなる。彼との間に確実な壁が生まれてしまう。


手元ある懐中時計を見る。

喧嘩の時に傷のついた時計は健気に動き続けている。

一年前に貰ったときの面影など何処にもない。


人が一人いなくなっただけのこの狭い部屋で独り佇む。

ほとんど何も変わってなどいない。それでも確実に同じではない。

部屋の広さは変わっていないのに、どこまでも続く空間に一人放り捨てられたように感じる。


ばたん、と扉の閉まる音が耳に届いた。

頬を雫が流れていく感覚を覚える。

「行かないで」そう伝えるために動いた唇は声もなく掠れた息を吐きだすだけだった。

引き留めようとする心の指令を体が拒む。


ふと、部屋に漂う彼の香りが鼻をくすぐる。

彼がここにいたこと。もう彼がここにいないこと。そのどちらも理解しきっている。




ベッドに体を預け、天井を見つめる。

視界が滲んでくる。

このまま泣きつかれた子供のように、すべてを忘れて眠ってしまおうか。

この心の重さに引きずられ沈んでいこうか。

瞼がだんだんと重たくなる。

眠くないけれど夢の世界に惹かれる。

全てが夢だったらいいのに。そう思いながら深く暗い眠りに落ちていく。



気が付くと、大学の食堂に彼といた。

嬉しさと、あぁこれは夢だと思う私がいた。

でも、それでも、夢であっても。今だけは。


初めて会ったのも、この食堂だった。

思い返せば顔から火が出るような思い出だ。

通り道のど真ん中でつぶれたカエルのようにこけた姿の私に、彼は手を差し伸べてくれた。

彼は心配した表情で、散らかった食器を集めながら声を掛けてくれた。

私が大丈夫だと告げると、彼は笑顔で良かった。とそう微笑んだ。


景色が変わる。

大学からの帰り道だ。月が暗い夜道を照らしている。

彼と一緒に買い物袋を持ちながら帰った日の事。

何てことないただの帰り道が、どんな時よりも楽しく感じられた。

付き合い始めたのもこんな月が綺麗な日だったな。

耳まで赤くした彼が、「月が綺麗ですね。」と誰に言うでもなく呟いた。

少し間があり、「勘違いするよ」と言うと

「勘違いじゃないよ。」そう返してくれた。

あの時繋いだ手の温度を私はいつか忘れられる時が来るのだろうか。


また景色が変わっていた。

綺麗な紅に衣替えした葉の舞い散る公園だった。

少し肌寒さを感じる中で、彼の体温を近くに感じていた頃のことを思い出していた。

気が付くと懐中時計が手元にあった。

そうだ、この時だった。

付き合って1ヶ月の記念で彼がくれたものだった。

これから先の時間を一緒に刻む気持ちを表したかったと言っていた。

彼は少しキザかなって言ってはにかんでいたが、私の胸は何か温かい感情に包まれていた。


更に景色が変わっていた。

手元の懐中時計は3時を指していた。

街中はイルミネーションで煌びやかに彩られ、雪がちらつく幻想的な空間だった。

大きなクリスマスツリーを二人で見上げた時のことを私はイルミネーションを見るたびに思い出してしまうのだろう。彼の横顔を盗み見ていて気が付いた。彼が視線の先に何か大事なモノを見据えていることを。



また景色が移り変わっていた。

手元の懐中時計は6時を指していた。

そうか、もう半分過ぎたのか。

なんとなくこの時計が一周する頃、そこがタイムリミットだと直感で理解していた。

天に輝く星々を眺める。彼の連れてきてくれた展望台は、今もあるのだろうか。

彼にとって心の支えになっていたというこの場所に、私を連れてきてくれたことがとても嬉しかった。

夜空を照らす明かりは、どこか遠く寂しそうに見えた。

彼の体温を忘れないように固くつないだ手のひらを忘れることなどできないのだろう。

彼とのタイムリミットが刻一刻と近づいているのを心が理解していた。

離れていく彼に、行かないでと伝えたくてつないだ手を忘れたくない。




再度景色が変わっていた。

手元の懐中時計は9時だった。

いつも一緒に過ごしている自分の部屋だった。

真剣な表情をした彼の雰囲気で悟っていた。

彼がこれから何を話すのか。彼が私のための嘘を吐くこと。

嫌いだと告げる彼の表情は、今まで見たことがないほどつらく苦しそうな色を浮かべていた。

ソレが解らなければよかった。子供のように泣きじゃくりながら本心をぶつけられたから。

少しだけ、ほんの少しだけ大人に近づいてしまっている私にはできなかった。


最後の景色が広がっていた。

手元の懐中時計は割れていて見えにくかったが、12時を指していたはずだ。

目を覚ました私は再度自分の部屋を視界に収めた。

先ほどまでの夢とは違い、たった一人で残ったこの部屋を。

ベッドの上で独り。ただそれだけでなんだか泣けてきた。

窓の外はいまだ暗く、深い闇に包まれていた。

静かで寂しくて、欠けてしまっている独りの夜は未だに明けようとしなかった。


カチカチと、秒針の刻む音だけが虚しく部屋にこだまする。

きっともう元には戻らないけれど。

それでも、割れた懐中時計はまだ時を刻む。

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