2-3:かける言葉など
「朱雀、タイラン山の炎に消えて、白虎はココウ岩場に溶けゆく。青龍、キョリュウ森林に眠りて玄武の住まうミツギ湖を見る……」
干の中邑は盛大に賑わっていた。そこここから商売人の声が怒号のように響いている。四獣を着想にした歌声は、広場から遠く聞こえる雑技団の歌姫のものだろう。
白い光源の元で活気はあふれ、誰もが生気に満ちていた。
「人だらけだな。さすが商業の中邑。飯店もでかい」
砂風に揺らぐ緑の披帛を首に巻き直し、泰然は飯店や屋台から立ちのぼる食べ物の香りに鼻をひくつかせている。
関所から歩いて数十刻。朝一番に詰所をあとにし、今は昼に入りかけたところだ。
「で、どうするよ。邸店探して、それからどこかで腹ごしらえするか?」
泰然は気分がいいらしい。問われ、佩芳は自分たちの後ろを歩く暁華を首だけで見た。彼女の顔色はあまりよろしくはない。
そうだろう、と冷静に思う。暁華が物置へ帰ってきたのは大分遅かった。兵士たちとどんなみだりがましい行為をしてきたのか、想像するのもおぞましく感じる。
「暁華?」
「……うん。邸店で部屋とって、それからご飯食べようか。朝飯抜いてきたもんね」
こちらに向かい、彼女は微笑む。なんてこともないように。昨夜のいかがわしい行為など、これっぽっちもしていないように。
「佩芳もそれでいいのか?」
「ええ」
首を元に戻して言うと、泰然は目はまたたかせた。自分のそっけない物言いに、何か疑問を覚えたのかもしれない。
「なんかあったのか? 暁華と」
「いいえ、何も。旅で疲れているのでしょう、彼女は」
「……そういうもんかね」
小声でささやいたのち、肩をすくめて泰然は天を仰ぐ。それでも半円形の橋を渡る足取りはしっかりしていた。
干の中邑には水路がある。近くにミシャ川が流れており、公共の埠頭も設けられていた。
佩芳が見たところ、川の水は澄んでいる。衛生観念がしっかりしているのかもしれない。奥の住居側、吊脚楼式の家屋が並ぶ方ではどうか不明だが。
青色の川に浮かぶ船では、塩や油、薪などを売り買いしているものも目立った。ちゃっかりと賄賂を受け取る駐屯兵の姿も見かけたが、目が合わないうちにすぐ視線を逸らした。
雑踏は多く、旅装束をまとったものたちの行き交いは激しい。隣を行く泰然にも気づかれぬよう、佩芳は静かに溜息をついた。人に酔ってしまいそうで。
「暁華。厩舎があるところに泊まりたいんだが、予算的にはどうよ」
「大丈夫だと思う。先払いした護衛の賃金を除いても、まだ余裕あるから」
「じゃ、ここにするか」
橋を渡りきった街路で、泰然は足を止めた。佩芳も、また。暁華は人混みを掻き分けて、馬の横で建物を見上げる。
青みがかった瓦は、白い光によく映えた。大門の隅はせり上がっており、木の扉左右に飾られ、客人を歓迎する証の抱鼓石には白虎の印が彫刻されている。門楼は幾何学模様で細緻に飾られていた。門額には『胡邸店』と流暢な文字。
「ちょっと高そう……」
「町の連中の話聞いてたら、ここが一番評判よさそうでな。角灯持ちの巡回もあるってさ」
「そっか。お金は命に代えられないもんね。ここにしよっか。個室、とってくる」
泰然の説明に納得がいったのか、暁華はうなずいて中へと入っていった。
「佩芳は値段をふっかけられないか、暁華と一緒にいてくれ。オレは案内があるまでここにいるから」
「……わかりました」
そう言われては仕方ない。首肯もせず、佩芳は暁華のあとに続いて邸店へ足を踏み入れた。
中は広い。石の欄板に施された植物画。中央には池があり、蓮の花が咲いている。太い柱に寄りかかり、商いの話をしている商人や旅人たちの姿も目立っていた。
暁華は入口のすぐ側にいる。奥にある、食堂と思しき虹梁の装飾などに目を奪われているようだ。
「何を呆けているのです」
「あ……ううん、綺麗だなって」
「宮の方が飾りがなされているでしょうに」
淡々と告げれば、暁華の顔が曇る。
「あたしは離宮で暮らしてたから。こんな装飾、ほとんど見たことなくて……お店の人はどこかな」
付け足すように笑う彼女へ、佩芳が口を開こうとしたそのときだ。
「いらっしゃい、何名様で? お泊まりかい、それともお食事だけ?」
恰幅のよい男が近付いてきた。朗らかな声はかなり大きく、思わず耳を塞ぎたくなる。
「泊まりと食事。三人なの。個室がとれればいいなって思ってるんだけど、空きは?」
「お嬢さん方、運がいいね! 明け方に丁度三つ、部屋が空いたよ。食事は夜だけ? それとも昼食もつけるかい?」
男は竹簡でできた品書きを腰帯から取り出し、こちらに見せてくる。丁寧にも、厩舎を使用するときの値段まで書かれていた。
「佩芳、どれがお得かな」
「……そうですね」
迷ったような、困った顔でささやかれ、結局暁華の代わりに佩芳が決めた。三つの小部屋と昼夜の食事、厩舎つき。それを二日間。
二日泊まると告げれば、男は満面の笑みでほんの少しだけ値引きしてくれた。
「厩舎は裏側、部屋は二階ね。食事は広間で。先払いでお願いするよ」
「うん」
暁華は革帯の銙から小袋をとって、銭を男へ手渡した。中身を見せる素振りはない。
銭を数えた男から、宿泊するときの鍵と竹紙を受け取って、佩芳はもう一度外に出る。
馬のたてがみを撫でている泰然が、こちらをちらりと見た。
「個室がとれました。店の裏側に厩舎はあるそうです。置いてから食事にしましょう。許可証と鍵はこちらに」
「わかった」
竹紙と鍵を手にした泰然は馬を連れ、大きな店の角を曲がっていく。颯爽と歩く足取りは速い。今まで暁華の足を気遣い、歩調を遅らせていたことがわかる。
「あれ、泰然ってばもう厩舎に行ったの?」
「ええ」
「じゃあ、食堂に行こうよ。あたしもお腹空いてたし」
入口から顔を覗かせた暁華のおもてをまともに見られず、ただうなずいた。
再び邸店へ入り、彼女の後ろを行く。そこら中からいろんな食事の匂いがしていた。
四人用の席があり、暁華はそこに腰かける。佩芳も斜め向かいの椅子へと座った。目ざとい店員が、献立の書かれた竹簡を素早く机の上に置いていく。
暁華は身を乗り出し、目を輝かせながら小声で品名を読み上げていた。
「たくさん種類があるね。佩芳は甘いのは好きじゃないから……キビの粥と牛のモツ煮込みと……うーん、泰然はたくさん食べるし、何にしよっか」
「私は簡素なもので構いません。好きなものを食べなさい」
「……ねえ、佩芳」
「なんでしょうか」
「こないだの夜、あたしが部屋から出ていったこと、知ってるでしょ」
机に載せていた手が、一瞬こわばったのを佩芳は感じた。だが、表情には出さない。あくまで無表情を努めてかぶりを振る。
「だとしたらなんだというのです」
嘘をついた。事実を知り、嘔吐までしたというのに。
暁華の醜さ、女の武器を巧みに操る姿に衝撃を受けたのは間違いない。だが、それを追求したところで何になるのだろうか。
「礼でも言えと? 機転を利かせてくれてと」
皮肉を込めれば、暁華はまた瞳の奥に暗いものを宿した。泰然がいる前では見せない、自分にしか見せない翳りは、佩芳の心に棘を作る。
「あたしはそんなの、求めてない」
「ならばあなたにかける言葉はありません」
「本当に?」ともう一人の自分が聞いた気がした。だが、胃もたれのような感覚がそれ以上、暁華へ吐き出す言葉を詰まらせる。
周囲の賑わいが耳にこびりつく。誰もが楽しそうだ。自分と暁華の席を除いては。彼女もまた、何も言わない。
冷たく感じるほどの沈黙。沈黙は苦ではないはずだ。しかし今回のものは重苦しい。
静寂が針となって刺してくる、そんなことを内心、佩芳は思った。