2-2:知らぬ方が幸せで
結局この日は、関所の中にある宿舎に泊まることとなった。金持ちもいたのだろう、部屋を賄賂で買ったと思しき旅行者の姿もある。確かに外よりかは安全だ。
佩芳たちにあてがわれた部屋は物置のように狭く、埃が獣脂の明かりにきらめいていた。藁でできた寝床だけが敷き詰められ、窓はない。窮屈そうだが文句を言える立場ではなかった。
馬を厩舎へ連れて行った泰然は、まだ戻らない。暁華と二人きりになり、意を決して口を開く。
「兵士たちに公女だと明かしたのですか」
「そんなことしないよ。おおごとになるじゃない」
「金を渡した様子もありませんね。まさか、通行証を売りさばいたとか」
「そこまで馬鹿じゃないよ、あたし」
「では、どうやって」
「佩芳はさ」
井戸で汲み取らせてもらった水を飲んだのち、暁華が真顔でこちらを見た。瞳にあるのは、無だ。何もない、恐ろしいほどまでに空虚な目へ思わず吸いこまれそうになる。
「好奇心から聞いてるの? あたしが心配だから聞いてるの?」
まばたきもせずに放たれた問いは、佩芳の言葉を詰まらせた。
身を案じている、というのは違う気がする。かといって、単なる興味本位でもない。宙に浮いたような気持ちは不安にも似ていて、どこか自分の胸をざわめかせる。
「……どちらでもないでしょう」
「正直だね。佩芳は昔からそう。はっきりしてるし人と関わりを持とうとしない」
暁華が笑った。歪んだ笑みだ。はじめて見るひねくれた笑顔が、より一層気持ちを不快にさせた。
「あなたに私の何がわかると?」
「わかんない。でもそれって、佩芳も同じだよね。あたしの何を知ってるの?」
「そうですね。互いに何も知らない」
沈黙が降りる。
肌がひりつくくらいの冷たい空気に、佩芳は無意識で袖の上から腕をさすっていた。
水袋を置き、薄紅の裲襠を脱ぎながら暁華は少し、目をつむる。佩芳には彼女の嘆息がやけに大きく聞こえた気がした。
「あたしのこと、ちょっとでも知りたいって思ってくれてる?」
「わかりません」
何もかもがわからない、ともう一人の自分があざ笑う。
知識を蓄えても、知恵を得ても、この十年何一つ理解していないように思った。
知りたいこと、唯一気にかけているのは土鱗の国に対する事柄だけ。そこに暁華が入りこむ余地は、今のところ感じることができない。
「よくさ、知らない方が幸せ、とか言うよね」
「……聡きものならば誰もが口にします」
「あたし、いやなの。佩芳のことだって乳母の翠嵐から少しは聞いてたし、だから呪痕士だってわかっても怖くなかった。小さいときも冷たかったけど、力を使ったりなんてしなかったでしょ。知ってたから平気になれた」
暁華がまぶたを開け、再び微笑む。先程の歪みきった、苦々しい感情をどこへ消し去ったのか、清々しいほどに明るい笑顔だ。
「あたしは佩芳と再会できてよかった、って思ってる。だからかな、佩芳の願いを叶えてあげたいって考えてるんだ」
「私の願い?」
「例えば安住できる場所とかね。賢人の美玲ならきっと、そういうのも見つけられちゃいそうだし」
「賢人がどのような方かわからないのでしょう? 楽観的な見方は危険だと思いますが」
「可能性は明るく考えた方が得だよ」
言って、暁華は扉側の藁へと寝転がる。
「こんなところで旅、終わらせたくないんだ」
つぶやかれた言葉は、今にも微かな光の中へ消えてしまいそうなほどに小さい。暁華は背を向け、自分の体に裲襠をかけてそれきり何も話さなくなった。
少しして、寝息のようなものが聞こえてくる。泰然が帰ってきたのはその直後だ。
狭い部屋の中、それでも荷物の確認を怠ることはできない。暁華を起こさないよう佩芳は泰然と共に明日の準備をし、床についた。
(賢人の美玲へ、私は何を望むのだろう)
薄い暗闇の中、目をつむり思案する。泰然の寝付きはよく、たった数秒で軽いいびきを掻いている始末だ。
自分にとっての安寧の地を想像してみる。できなかった。全く思い浮かばなかった。
想起するのはなぜか、夢魔を食らい生きてきた禁忌の宮だ。あそこでの生活は、孤独だった。しかし楽だった。外界と人、両方と関わりを持たずに過ごしてこられた唯一の場所。
それでも、と目を閉じたまま考える。脳裏に描き出される暁華の笑顔が離れない。
彼女が来て、言葉を交わした数ヶ月は、旋の邑や他の場所を巡るときに役立った。他者とどう接するべきか学ばせてくれたのは、間違いなく暁華だ。
母の藍洙は普通のときが少なかった。気が触れていた場合の方が多い。
「いつか弟が、宇航が迎えに来てくれる」と繰り返しささやき、夢想したまま死んでいった。叔父に当たるその男は今、どうしているのだろう。
様々な事柄が佩芳の頭を駆け巡る。溜息をつこうとした刹那、暁華がそっと、静かに身を起こした。裲襠を藁の上に置いて、そのまま部屋を出て行く。
尿意でも覚えたのだろうか。厠は確か、外だ。
寝ぼけた彼女はたまに、とんでもないところまで歩いていくことを佩芳は知っている。どうしようかと悩み、すぐに彼女を追うことを決めた。
泰然はいびきをかいたままだ。衣擦れの音をさせても起きる気配がない。
荷物は全て彼の横、部屋の最奥に置いてある。誰かが手にかけようとしたときは、さしもの泰然でも目を覚ますだろう。
木でできた扉を開け、通路に出る。左右に灯された蜜蝋の火が、隙間風に揺れていた。
暁華は十字角を曲がっていく。外――厠とは逆の方向だ。やはり起きた直後だからかもしれない、と考えるも、何かがおかしい。彼女の足取りは、やけにはっきりしている。
暁華の後ろ姿に声をかけようと、佩芳が口を開いた、そのときだった。
髭を蓄えた兵が二人、近くの部屋から出てきた。慌てて角の隅に隠れ、様子をうかがう。
下卑た笑みを浮かべ、一人の兵が何かを小声で言う。暁華はうなずく。そして、そのまま、平気な様子で兵士の部屋へと入っていった。
佩芳は呆然と、その場に立ち尽くす。
暁華へ向けられた好色な視線。いやらしい顔つき。それが意味することを理解できてしまう。女が夜に、一人男の部屋へ向かう意味を。男が女を迎え入れることも。
足が震えた。血の気が引く。思わず壁へと肩を預けるくらいに、衝撃を受けた。
おそらく、否、確実に暁華は安全と自分のために男たちへ身を捧げたのだろう。しかも平然と、当たり前のように。
吐き気がして、佩芳は口元を手で押さえる。嫌悪にも似た、しかしそれよりも熱い何かがこみ上げてくる。冷たさと熱さ、得体の知れない二つの何かが、体の奥で渦を巻いていた。
(忌まわしい)
率直に、そう思う。
体と引き換えに得た安全と寝床。何より呪痕士という懸念を外に向けさせた事実。
暁華の様子からするに、手慣れている。今まで彼女が一人でいたとき、炎駒の国まで辿り着く中、幾度もこうしていたのかもしれない。そうでなければ機転がきくこともなかっただろう。
公女という立場を使わず、女としての武器を平気にあやつる今の暁華。無邪気に微笑んでいた昔の彼女の顔が交互に点滅し、消える。
佩芳はたまらず、その場へ嘔吐した。
暁華がいる部屋へ入り込む気にもなれず、じっと排水路の吐瀉物を眺める。
朗らかさという光に隠された暗闇を見て、やはり、と口元を歪めた。
(知らない方が幸せだ)
そのまま、少しふらつきながらもあてがわれた物置へと戻る。兵士二人がいる部屋に入る気は、なかった。
なれなかったのかもしれないだけだが。