1-3:忌まわしきものよ
呪痕士とは恐るべき存在だ。
我ら一般人が一つの痕を持つのに対し、彼らはそれを複数に持つだけにとどまらない。なんらかの媒体、そして五行の詠唱を使わずとも、たった一言だけで痕術を行使することができる。
土鱗の国の住人ほとんどが呪痕士であったのは、ほとんどが近親婚で、血統を絶やさずにいたからであろうと推測する他ない。
しかも大半が敵対的であり、二百年ほどの寿命を持つ。これは四ツ国の面々にとって脅威であった。だからこそ戦が起きたのだが。
夜霧、夢魔、呪痕士。
土鱗の国の残したものと我々は決して相容れない。彼らによって、今でも我らは苦しめられているのだから――
※ ※ ※
「土鱗の国」
ぽつりと佩芳はささやいた。
書物を閉じて片眼鏡を外す。机から顔を上げれば、窓の外はすでに藍色だった。
土鱗の国は自分の故郷ではない。否、四ツ国のどこにも居場所などないはずだ。今現在も旋の邑から出ることも考えていた。各地の邑や中邑を転々として、いずれはひっそりと最期を迎えるのだろうと。
「どうしてここにいるの……」
暁華の問いが頭で繰り返される。
先程からずっとこうだった。何をしていても、放たれた言葉が脳裏をかすめてやまない。
嘆息し、椅子から立つ。気持ちが落ち着かなくてどうしようもなかった。薬でも調合しようかと考え、やめる。配分を間違えては身も蓋もない。
もう一度窓の外を見る。彼女は言った。「待っている」、と。
まだ飯店にいるのか少しだけ、本当に若干不安がよぎり、布の鞄を持って外に出た。
道は静かだ。揺れた梢の音だけが聞こえる。飯店からの賑わいもない。しかし、獣脂の明かりが小屋から漏れているのを見て、思わず早足になった。
扉を開ける。祝金はもう家に戻ったのだろう、出迎えてくれたのは飯店の主人だった。
「女性の旅人が来ていませんか」
佩芳が問うと、主人は親指だけで奥の席を指し示す。
そちらを見ると、一番奥では、暁華が机に突っ伏しているのが見えた。
近くには旅人らしき赤毛の青年が座っており、ちらちらと彼女の方をうかがっているのがわかる。
――うら若い娘が、なんと不用心なのか。
佩芳は溜息をつき、暁華へと近付いた。
暁華の机からは酒精の匂いがする。シュウ酒をしこたま飲み、食事もした痕跡があった。目をすがめ、寝入る暁華の肩へ手をかける。
「いい加減起きなさい。人様に迷惑をかけるのではありません」
「う、うぅん……」
「邸店へ案内します。さあ、起きなさい」
「……佩芳?」
暁華の瞳は潤んでいた。こちらを見上げた彼女の唇がつり上がる。
「あたしの勝ち」
「なんの話をしているのです」
「賭けてたの。待ち人は来るかどうかって。来てくれたね、佩芳」
にこやかに、これ以上なく無邪気に微笑まれ、佩芳は押し黙った。
しかしすぐに首を横に振り、冷たいまなざしを作る。
「あなたが店へ迷惑をかけていないか、確認しに来ただけです」
「どのみち来てくれたじゃない。ねえ、邸店に案内してくれるって本当? おすすめのところは? あんまりお金は使いたくないから、そこまで立派じゃなくていいけど」
酒が入っているためか、暁華は饒舌だ。
いや、と佩芳は内心で思う。昔から話すことが好きな少女だった。一を語れば十を返す、おしゃべり好きな部分は相変わらずだ。
そこまで考え、自分が苦笑を、唇を歪めていることに気づいて絶句した。村人にすら愛想を浮かべたことがないというのに。
改めて顔を引き締め、暁華の腕を掴む。
「いいから立ちなさい。案内はしますから」
「もう少し飲みたい。佩芳も来たし」
「潰れているのに何を……」
声を荒げようとした、直後だった。
赤い閃光がまばゆく窓から入り込んだのは。
「夢魔だ! 夢魔が出たぞ!」
見張りの声が大きく聞こえる。我に返った佩芳が見たのは、赤毛の青年が青竜刀を持って飯店を飛び出した姿だった。
暁華も驚いたように半身を上げている。
「嘘、夢魔が……」
「あなたはここにいなさい。酔っていては何もできないでしょうから」
三節棍を取り出す主人へ目配せをし、佩芳は暁華を置いて外へと駆け出した。空の色は、赤。危険を示す色に様変わりしている。
赤い空の下、二体の夢魔が村に入りこんでいた。うなり声を上げながら。
獅子の体にワシの頭、透明な羽を併せ持つ怪鳥。いつもより少し弱い光源にも気圧されることなく、夢魔は暴れ、そこらじゅうの木々や家畜小屋を襲っていた。
「佩芳、梁が倒れた。高台に行ってくれっ」
弓を持ち、相対するのは翻だ。容赦なくニワトリを貪る獅子の夢魔へ、矢を放ちながらこちらに指示を飛ばしてくる。
「村人さんは避難して! 飯店に行くのよ」
邸店から出てきた雑技団たちも、それぞれ飛び起きた村人などを誘導していた。旅に慣れているためか、このような場面に遭遇した過去があるのかもしれない。彼らの指示は的確だ。
飯店は一番広く、食料庫も完備されている。籠城する場所には妥当だった。
「五行相剋こそは火剋金。なれど我が刀剣は金に非ず。五行相生は火生土!」
赤毛の青年が痕術を発動させる。剣に淡い光をまとわせて、獅子へと突っ込んでいく。
(私はここで、何をしているのだろう)
佩芳は浮かんだ疑問を打ち払うように、高台の方へと急いだ。
梁の容体が急変し、倒れたとなると残りの光源士は二人。彼らにできるのは危機を知らせる光を灯すことだけだ。
広場に近い南の高台は梁が担当している場所だった。白い褲を汚し、佩芳は土まみれになりながら高台を駆け上がる。
「佩芳……ああ、佩芳が来てくれたよ、梁!」
松明を灯し、佩芳を手招きしているのはへたりこんでいる祝金だった。
泣きべそをかく祝金へうなずき、佩芳は荒い呼気をしている梁の側へしゃがみこむ。口から泡を吹いているが、外傷は見たところ一つもない。
「翻が言いに来た途中でやつらが……佩芳、梁は大丈夫なのかい」
「疲労が蓄積されたのでしょう。今は無理に起こさない方がいい」
梁の額に手を当て、熱を確かめる。熱い。かなり無茶をしていた痕跡があった。
鞄を下ろし、解熱剤を取り出そうとした瞬間だ。
「もう一体いるぞ!」
翻の言葉に振り返る。烏の頭部に大蛇の体を持つ夢魔が、凄まじい勢いで高台へと上ってきていた。
それは牙を剥き、こちらへと飛びかかる。
「火よ!」
祝金の悲鳴と共に佩芳が言葉を発したのはとっさのことだった。瞳に浮かんだ痕が熱を帯び、体の中で螺旋を描く。
手のひらから放たれた火球は大きく、一撃で夢魔を焼き尽くす。断末魔。昔に嗅ぎ慣れてしまった焦げ臭い匂いが辺りへ広がる。
しまった、と思ったときには遅かった。
避難していた村人たちが、翻が、そして赤毛の青年や出てきた暁華までもが――こちらを見ている。ほとんどのものが唖然とし、瞳へ畏怖を漂わせていた。
「あんた……呪痕士」
横にいた祝金が、つぶやいた。声が震えていることを認識すれば、彼女と視線を合わせられない。
決して正体を明かさぬよう努めるはずだった。そうして今まで上手くやってきたはずだ。だが、失敗した。露呈した。自ら暴いてしまった。
煤となった夢魔の跡を見つめ、佩芳はただうなだれる。
頬、手の甲、くるぶし、目にある痕全てが熱い。久しぶりの術へ、全身が喜びを覚えるかのように発熱するそれが、わずらわしかった。