4-10:夜を育むものは
戦いで命を落としたものは、美玲が予想していたよりかは少なかったようだ。
金冥の兵と砂漠宮の住民、会わせて二十数名。黄龍の力があったとはいえ、治癒が間に合わず死に至ったものもいる。
土鱗の区画に浮上した宮から出た住人たちは、空の青さに驚き、亡骸へ涙を流し、または無事を喜びと、それぞれせわしなかった。
佩芳は医者として参戦したものの様子を診て回っていたが、生き残った彼らに大きな異常は見受けられない。体力を使い果たしたのか、それともこれも黄龍の成せる技なのか、ただ黙って眠っている。それもまた一人、一人と起き上がりはじめてはいた。
「他の王邑じゃ混乱してるだろうな」
「そうでしょうね。いきなり夜霧が晴れたのですから」
一息つき、石に腰かけると、包子を頬張る泰然が水と同じ食料を手渡してくれる。それらを受け取り、なんとはなしに空を見上げた。
青い。どこまでも澄んだ水色をした空だ。白い綿のようなものは、きっと雲というものだろう。薄くたなびく雲とそれを越して輝く太陽。文献でしか知らなかった存在に、ただ黙って目を細めた。
「佩芳様、泰然様」
直後、裳を引きずり、美玲がこちらへやってくる。先程まで暁華と話していたはずだが、彼女の姿は見当たらない。
「お疲れ様でしたわ。皆様がご無事で、本当によかった」
「お前さんも気が気でなかったろ。同胞を死なせちまったわけだしな」
「はい。志願して下さった方、とはいえ、苦楽を共にした仲間ですもの。悔やみきれませんわ」
うつむく美玲に、なぐさめるのは言葉でもできる。だが、佩芳はそうしたくなかった。彼女の痛みと自分の痛みは違う。悲しみも、苦しみも、共有するのは己の役割ではないはずだ。
「これからどうするつもりですか」
「……そう、ですわね」
あえて問えば、美玲は無理やりに笑みを作って顔を上げる。
「この砂漠宮は破壊してもいいと考えていますの。遺恨を残さず、どこかの土に返そうと」
「なかなかもったいない気もするがな。お前さんと一緒にいる連中の処遇は? 他の中邑や邑に行かせるつもりか?」
「彼らを望む場所へ送っていければ、そう思っていますわ。ただ、現在どこも混乱に陥っているはずですので……傑倫様に頼み、一時、金冥に身を置かせてもらえればとも」
慎ましげな返答に、はぁ、とため息をついたのは泰然だ。嘆きと呆れ、多少の苛立ちがこもっているように佩芳には感じられた。
「ちょっとこっち来い、美玲」
「え、ええ」
小首を傾げる彼女の手を引っ張り、泰然は大股で砂漠宮へと戻っていく。
(傑倫に頼るな、と言いたげですね)
自然と口に笑みを浮かべた佩芳は、二人の背中をただ見送った。彼は次の帝候補なのだ。金冥ではなく炎駒に身を寄せろと、美玲を叱るのかもしれない。
平和的なやりとりに、今更だが疲労感がどっと押し寄せてきた。水を飲み、包子を咀嚼する。甘い味付けの豚肉が、疲れた体に染み渡っていくようだ。
風も、次第に緩やかで暖かくなってきた。簡易な食事を終えて辺りを見渡せば、子どもたちが透明な水や青空に向かい、はしゃぎ声を上げているのがわかる。住人や金冥の兵たちが止めても、はじめて見る青と陽光に興奮を抑え切れていないのだろう。
陽射しは優しい。朝焼けとは違うどこか丸みを帯びた光が、それでもなぜか、まぶしすぎる。
「何たそがれてるの? 佩芳」
空に集中していたため、暁華が近づいていたことにほとんど気づかなかった。彼女も手に水の器を持ち、こちらへ穏やかな笑みを浮かべている。
「横、座っていい?」
「ええ、どうぞ」
佩芳が腰を移動させ、座る場所を作ると、暁華も岩の上に乗ってきた。
「ちょっと老けたね」
「誰がでしょう」
「佩芳だよ。鏡、見る?」
胸元から手鏡を取り出す暁華は、楽しそうだ。目をまたたかせ、佩芳は鏡を怖々と受け取る。
鏡に映っていたのは、三十代頃の男だった。金の瞳と銀にも似た白髪は変わらずだが、少し目尻などに皺ができている。若々しさは失われた代わりに、落ち着きのあるおもてに様変わりしていた。
水を飲んだ暁華が、申し訳なさそうに肩を落とす。
「あたしのために、寿命を削ってくれたんだね。ごめんね」
「私が望んだことです。この程度で済んでよかった。もっと、こう……」
「なになに?」
「老人になって、あなたに袖にされるかと」
鏡を返し、本音を漏らせば、暁華が朗らかな笑い声を上げた。
「やだ。あたし、佩芳がおじいちゃんになっても好きだよ。そうじゃなきゃ、一緒にいようって言葉、真に受けないもん」
「受け入れられて安心しました」
彼女の言葉に、佩芳はほっと胸を撫で下ろす。
命すら落としても、悔いはないと思っていた。その覚悟で戦ったはずだ。なのに今はどうだ。寿命が惜しい。少しでも長い間、暁華の側にいたいと思う自分がいる。
浅ましいのか、情けないのか。判断がつかない。ふと泰然の言葉を思い出す。共に生き、共に死ぬ。それは立派な恋で、愛だと。
卑しくても構わないだろう。自分はようやく、今を生きているのだから。
「暁華、これからどうするのですか。美玲と何やら話していたようですが」
「ん……あたしとしては、泰然に頼っちゃおうかなって思ってるんだけどね。佩芳はどこか行きたい国、ある?」
「あなたの側にいられるなら、どこでも構いません」
「……そっか。それならね」
照れたように肩をすくめる彼女が、口を開きかけたときだ。
「そこの二人」
どこか、なぜか憤然とした顔つきの傑倫がこちらへ歩を進め、眼の前で止まる。
「あなたも無事で何よりでした、帝どの」
「何が欲しい」
苦笑する佩芳の労いを無視し、彼はいった。
「欲しい、とは?」
「何が欲しい」
「少しのお金と、家。畑を作れるところなら、大きくなくていい。金冥じゃなくてもいいよ」
眉を寄せた自分の代わりに、暁華が答える。
「霊胎姫の伝承を四ツ国に告げるが、問題はないな」
「うん」
「暁華、それではあなたが虚ろ子だということも……」
「いいの、佩芳。あたしは死んだことになってるんだって。美玲たち賢人が、上手にそこの部分を考えてくれるはずだから」
「しかし……」
「わかった。家と金だな。それを手切れとする。一度金冥に来い」
「そうする」
それだけいうと、一瞬、刹那だけ暁華と傑倫の間に沈黙が下りた。だがそれも、本当に一呼吸程度くらいだ。傑倫は、全てを話し終えたというように元来た道を戻っていく。
「これでよし、だね」
暁華が笑うも、佩芳はどこか納得がいかない。
「あれだけの会話でよかったのですか」
「だってこれから必要になるじゃない。家もお金も。お腹の子のために」
さらりと言われたものだから、正直彼女が何を言っているか理解できなかった。
必要。家、金。――子。
「……今、なんと?」
「あ、これ、多分なんだ。でも、ずっと月のものもきてないし。ちょっと吐き気みたいなのもするし」
「……子」
「うん。お腹叩かれなくてよかったよ。顔だけで済んで……」
慈しむように、まだ目立たない腹を撫でる暁華へ呆然とし、それからだ。
やんわりと、じっくりと喜びがこみ上げてきたのは。
「暁華!」
「きゃっ」
声を上げて彼女を抱き締めた。水の入った器が落ちる。
「は、佩芳。人が見てるってば」
「構いません。ああ、あなたという人は本当に……どこまでも私に幸せをくれる」
少し体を離し、暁華の滑らかな頬を手で撫でた。目が潤む。涙腺が緩み、視界が歪んだ。
「私があなたたちを守ります。どこでどう生きようとも。共に、生涯を」
「うん。……うん」
そっと、静かに彼女の腹部へ手のひらを当ててみた。どこか懐かしい感覚がする。形容しがたい空気が伝わる。
怪訝な様に気づいたのだろうか、手の上に手を重ね、暁華がささやく。
「夜を継ぐ子だよ」
「……?」
「この子はきっと、強い力を持って生まれてくる。土鱗の血を継ぐ子。夜を産むの、あたし」
「それは……再び夜霧が生まれる、ということでしょうか」
「ううん。まだ、説明はできないけど。夜霧じゃないから安心して」
くすくす笑う彼女の様子に、佩芳の理解は追いつかない。
夜を産むとは。強い力とは。一体どういうことなのだろうか。
だが、謎よりも不安よりも、幸せの方が勝る。
(例えどのような子であれ、守ろう)
暁華と微笑み合い、決めた。愛しいものが、大切な存在を育んでくれるのだ。これ以上幸福なことはないだろう。
陽射しに臆している場合ではない。この空の下、青の下で育つ新たな生命。
――きっと、かけがえのないものになる。
そう、強く強く、感じた。
次回、終章は12月1日更新の予定です。




