4-9:黎明よ
環首刀が光を帯びたまま、三人の幻と共に闇を裂く。宝玉が真っ二つに割れた。蠅の群れのように拡散した暗黒――夜霧から金切り声がする。
隠れるように散らばるそれを、佩芳は逃さない。
「北に出でるは玄武! 南に出でるは朱雀! 西に出でるは白虎! 東に出でるは青龍!」
頭の中に浮かぶ単語が、口を突いて出る。
もう、体を苛む苦しさや辛さは感じない。柔らかな金色の光が強くなるつど、周囲を飛ぶ天乃四霊が大きく成長するたび、生気が満ち足りていくようだ。
玄武が地を踏みしめる。朱雀が闇夜を払い落とす。白虎が大きく吠える。青龍が爪を立てる。
「玄武、朱雀、白虎、青龍」
衣擦れの音と声がし、佩芳は刀を落として後ろに飛び退いた。
暁華だ。彼女が舞っている。いつの間に治ったのか、頬の腫れは引き、鼻血の痕すら残ってはいない。
埃すら一つの装飾具に変え、暁華は踊る。ゆったりと衣を宙に舞わせて、金の光を携えて。
彼女はこれ以上なく安らいだ顔をしていた。喜びのおもてを作っていた。戦場にそぐわないほど、優しげな顔つき。
「我、霊胎姫。天乃四霊を使い、五行相剋にて生み出すは――黄龍」
四霊たちが一つになる。渦に変わる。ぶるぶると震える暗闇を吹き飛ばす勢いで。
白い色と黒い夜霧の混ざり具合は、佩芳が昔、本で見た太極図にそっくりだ。陰と陽、二つの均衡を表す大きな模様が、目の前にできている。
そして、金色になる。全てが金色へと変わる。まばゆい光に佩芳は一瞬瞳を閉じ、まぶたを開けた次の瞬間、目に飛びこんできたのは。
「金の、龍」
鋭い瞳、長い牙と爪、小さな体躯、その全てが金色の龍だ。汚れを知らないほどに光り輝く、思わず崇めたくなるほどきらめく、一匹の龍がいた。
龍が、静かに頭をもたげて残った闇夜の塊を見つめる。そして暁華を見る。
何かを話したわけでもないだろうに、それでも通じるものがあるのだろう。彼女は踊るのをやめ、微笑みながら首を横に振っていた。
龍はうなずく。呆然としかできない佩芳の目の前を、暁華が通り過ぎた。
すでに手のひらの大きさとなった闇の宝玉、割れてただ身を震わせることしかできないそれに向かい、彼女はしゃがみこんで語りかける。
「憎いよね。辛いよね。悲しいよね」
幼子に語りかけるような、落ち着いた口調だ。暁華が何度も首肯する。
「あたしのところへいらっしゃい」
両手を差し伸べて、彼女は笑った。闇夜が少し、困ったかのように明滅し、それから動く。金色の粒子から逃れるためにか、夜霧の塊が暁華の体へと流れていった。
「何を……」
佩芳は思わず止めようと腕を上げる。それを押しとどめたのは、黄龍だ。瞳の作りは鋭いが眼差しは穏やかで、見つめられた瞬間、力が抜けた。何も言えなくなる。
全ての夜霧が暁華の体に滑りこむ。ほ、と一つ吐息を漏らして、彼女はしばらくの間、目をつむっていた。
静寂が帳となって辺りを包む。彼女がうなずき、相変わらず笑いながら今度は佩芳の側へとやってきた。
「黄龍、あとはお願いね」
一つ咆哮した龍は、体を光の粒に変え、天井をすり抜けていく。
呆然とその様子を眺めていた佩芳の手を、暁華が握ってきた。まだどこか夢心地のような感覚で、彼女を見下ろす。
「助けに来てくれたんだね、佩芳」
「……暁華」
「ありがとう」
彼女の片手が佩芳の頬を包みこむ。まがまがしさも怨鎖もない、朗らかで穏やかな暁華の面持ち。笑顔に安堵し、無事なことを認識した瞬間、涙腺が緩んだ。
「暁華」
名を呼び、強く抱き締める。細身だが柔らかい肢体を、腕の中へ閉じこめるように。
「あなたが無事でよかった」
「うん」
猫に似た仕草で、暁華が腕へと頭をすり寄せてきた。いつもの温もりに、ただ目頭が熱くなる。目を閉じ、うっとりとした様子で身を預けてくれることが嬉しい。喜ばしい。
「みんな、いるよ」
白い瞳へ戻った彼女の言葉に、目を瞬かせる。
「どういう意味ですか?」
「連杰も宇航も藍洙も、みんなあたしの中にいるの。もう、独りぼっちじゃないよ、佩芳」
脈絡を得ない会話に困惑した。暁華は笑う。何もいわないまま、いたずらっ子のように。その顔があまりにも普段どおりのものだったため、それ以上問い詰めることができない。
「独りではありません」
「えっ?」
それでも自然と言葉が出てくる。
首を傾げる暁華の頬に手を当て、笑った。
「いつでも胸に、頭の片隅にあなたがいた。私の居場所はあなたです、暁華。あなたが生きる場所、死ぬ場所に、いつでも私はいるでしょう」
「そ、それって……佩芳、それって」
頬を朱に染める彼女にうなずき、涙をこぼしながら額へ口づけた。
「私と一生を共にして下さい。あなたを守らせて下さい」
暁華の顔が熱を帯びたのを、唇の熱さで感じ取る。何度も何度も、小さくうなずく彼女の肩が小刻みに揺れていた。
「嬉しい。佩芳、嬉しい、あたし……」
暁華もまた、落涙しながら笑う。美しい微笑みに、佩芳の胸はただただいっぱいになった。
「佩芳。ね、外に行こ」
「そうですね、泰然たちが心配です」
「みんなの傷はね、黄龍が治してくれてると思うよ。だからほら、兄様も眠ってる」
指を差されて後ろを見れば、地面に横たわる傑倫の姿がある。だが、閃光によって貫かれた肩の傷はすでに塞がっており、微かに規則正しい寝息が聞こえていた。
「傑倫を放っていていいのですか?」
「うん。あたしと兄様の道も居場所も、一緒じゃないから」
吹っ切れたように言いきる暁華のおもてには、怯えも何もない。佩芳もその意をくみ取り、うなずくだけにとどめた。
後ろ髪を引かれることもないまま、二人で玉座の間から出る。
しばらく歩くうちに気づいた。腐臭も戦火の音も、何もしていないことに。
そして――
「……光」
外が見えた。細かい金色の粒子が、雨のように降り注いでいる。天を仰げば、いつの間にか巨躯に変わった黄龍が天に座していた。
近くまできていた金冥の兵士も、砂漠宮の仲間たちも、泰然も。みな、一様に夜霧の中に浮かぶ龍を眺めている。見惚れるように、唖然とするように。
金の粒がヤナギや沼に触れるつど、色や透明度を取り戻していた。腐りきっていた汚泥は今や見る影もない。頬を撫でる風もまた、冷たいが臭気を放ってはいなかった。
「佩芳、暁華!」
歩み寄ったこちらに気づいたのか、泰然が顔色を明るくさせる。
「無事で何よりです、泰然。皆さんも」
「ああ。お前さん方もよかった」
「ありがとね、泰然。みんなにも心配かけちゃった」
「あれはなんなのです? あの龍が現れた途端、暁明鳥も夢魔も溶けるように消えました。悪い感じはしませんが……」
「相剋の本当の意味だよ。相生の本当の意味でもあるよ」
弩を持った青年の問いに答えたのは、暁華だ。
「なんだって?」
「生をもって死と成る。死をもって生と成る。この二つが完成された姿が、黄龍。盤古と対をなして、盤古の死と共に生まれる新しいもの」
「つまり、夜霧を消すことができる存在」
「うん」
佩芳が付け足せば彼女はうなずく。両手を広げ、爪先立ちになった。
「夜霧を、黄龍」
暁華――否、霊胎姫に呼応するかのように、黄龍は一つ咆哮した。咆哮と呼ぶには優しく、なめらかな歌のごとき声だったが。
龍の全身がきらめき、一層まぶしくまたたいて、弾ける。
空が金色に制された次の瞬間、ごう、と一つ大きな風が吹いて――
夜が、消えた。
龍の姿もまた、同じく。二つが消え去ったあとの空は藍色をしており、白い粒のようなものが無数にきらめいている。
「あれは……星?」
周囲がざわつく中、佩芳は文献で見たまたたきに釘付けとなった。
その奥、今までは夜霧によって隠されていた地平線から、何かが迫り上がってくる。橙色をした、大きい何かが。
「夜明けだよ、佩芳。これが本当の朝」
燦々とした輝きを放つ、円形のそれ。橙と赤みを帯びた光は暖かく、佩芳が見たどんな輝きよりもまぶしかった。
「黎明」
本の中でしか知らない言葉。
誰もが焦がれていた真の光。
たった数文字の単語に、どれほどの気持ちをこめて人はそう名付けたのだろう。
生けるものの影を伸ばす、はじめて見る本物の陽に、佩芳は万感の思いで目を細めた。
勝ちどきの声があちこちから上がる。仲間や兵たちの誰もが肩を組む中、踵を下ろした暁華へと近づき、横に並んだ。
「……私には少し、まぶしいですね」
「うん。今ならわかるよ、佩芳の気持ち」
暁華は若干寂しげに、微笑む。佩芳は黙って彼女の手を取り、強く握る。
はじめての朝焼け――黎明は、あまりにも美しく鮮やかすぎて、怖かった。
次回更新は11月27日予定です