4-8:血筋と居場所
憎しみ、恨み、妬み――この世全てのどす黒い感情をこり固めたら、今、佩芳が感じている感情になるのだろうか。思念はやむことなく頭を苛む。いや、全身が震えている。悪寒に頭痛、吐き気、冷や汗。
「っは……」
苛烈な異変だ。体を縮ませ丸くなり、中へ入りこんでこようとする思念に耐えた。
目を閉じても鮮明な、驚異的な連杰の情念が心臓の脈を速める。苦しみと痛み、それ以上の混沌とした狂気が心身を襲う。
頬を掻きむしった。二の腕を抱き締めた。どれも、だめだ。落ち着かない。
片方のまぶたを開け、宝玉を見つめる。猫の瞳にも似た、血と闇で作り上げられた混沌は、空中に浮かんで点滅を繰り返していた。
下に投げ捨てられた宇航の体にはすでに水分がなく、細い木の幹のように乾き切っている。傑倫すら、閃光の一撃がひどかったのか倒れ伏して動く様子はない。
「っ、あ、あああ!」
闇の明滅がするつど、怨鎖そのものが佩芳を襲う。頭を床に打ち付け、地面の土に指を食いこませても、心をむしばまれていく忌避感は堪えがたいものがあった。
――妬ましい。
(誰が)
――殺したい。
(誰を)
――滅したい。
「ち、がう……やめろ……」
理性をこじ開けて入りこむように、連杰の本能――狂気じみた思念が滑りこんでくる。
生理的な涙が出た。ぜいぜいと息が切れる。交互に浮かぶのは引きつった笑みと泣き顔だ。頭をむしり、音を立てて髪を抜く。しかし、苦痛は憎しみを呼び起こす糧にしかならない。
光と闇、二つの火花が踊る脳裏に浮かぶのは、生々しいほど鮮明な死体だ。蛆がたかり、鼻や頬肉をこそげ落とされ、目をくりぬかれたそれは、人間の尊厳を破壊されている。乱雑に散らばった宝飾品だけが戦のかがり火に輝き、蠅を呼び寄せていた。
これは祖父の、連杰の死体なのだと確信する。夢魔になった、盤古と一体化した張本人だ。
「ああ……!」
あらゆる憎悪が、佩芳の中に入りこむ。天井を見上げて狂ったように哄笑する。
(殺したい。殺したい。殺せ。殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ)
飛び出すほど、目を見開いた。知らずのうちに血涙が流れていく。
死体から次々に、映像は切り替わった。陵辱され、殺される女性の苦悶が耳にこびりつく。子どもを火炙りにし、槍で突き刺し笑う兵の姿も見えた。命乞いする老人の頭を、無造作に鋭い刀剣が貫いていく。
「はは、はははっ」
佩芳は笑い続けた。憎しみと怒りの狭間で、ただ笑った。
醜い。人は、醜い。嫉妬で狂った四ツ国、それらの人間がいかにおぞましい行為に及んだか。白塗りの宮を破壊し、至宝を持ち逃げし、土鱗の民を虐殺して回るその姿に、怒りが募る。
(ならば、私が)
引きつった笑みを浮かべ、幽鬼のように立ち上がった。
(土鱗の血を引く、『我』こそが)
先程までの悪寒が消えている。頭痛も冷や汗もない。明滅する闇の宝玉に視線をやれば、放たれる暗闇が、心地よいほどの風を作り頬を撫でてくれていた。
その風の感触は、母の手の温もりに、どこか似ている。
微笑んで、宝玉へと指を伸ばしかけた、そのとき――
「だめ、佩芳」
耳障りな声がする。微かに耳に入る声に、そちらへと視線をやった。
「だめだよ、佩芳。飲みこまれちゃだめ」
石造りの台座から下りた、霊胎姫がいた。
「邪魔をするな、小娘」
喉から勝手に声が出る。自分のものではない声が。
娘は悲しげに笑う。白い双眸をしっかりとこちらに向け、視線を外すこともせず、腫れた頬をそのままにかぶりを振った。
「佩芳に押しつけないで。悲しみと苦しみを背負わせないで」
「愚か。血の繋がりがあればこそ、民の思いにしたがうは道理」
せせら笑い、佩芳は転がっていた環首刀を拾う。
まずは誰から殺そうか――周囲を見渡し、野獣のような笑みを浮かべた。
娘がふらつきながら、一歩、踏み出すのが見える。まぶたを伏せ、ゆっくりと左右に腕を広げていった。
「まずは死にたいらしい」
犬歯を剥き出しにいうと、一瞬にしてそれの表情が変わった。
――その瞳は、金色。
決意した表情になぜか気圧された瞬間、娘はなめらかな口調でそらんじる。
滞嵐山中炎生朱雀(滞嵐山に炎生じるは朱雀)
――トン、と靴を鳴らして左腕を上げ、回転する。
呼光岩場成白虎 (呼光岩場に姿成すは白虎)
――右の腕を降ろし、地面を指でなぞってすぐに跳ね上げる。
居粒林中目覚青龍(居粒森林に目覚すは青龍)
――腰をくねらせ、その場で二度、腕で宙を掻く。
満宜湖至住玄武 (満宜湖に至り住むは玄武)
――ぱん、と両手を叩いて再び腕を広げる。
踊り終えた娘の体が、瞬く間に金色へ発光した。
「我、霊胎姫也」
滔々と紡がれた瞬間、それの腹部から四つの輝きが漏れ出る。僅かな、ちっぽけな光はしかし、すぐさまそれぞれ姿を変えた。
炎を帯びた鳥、朱雀。
長首を持つ虎、白虎。
緑にきらめく、青龍。
蛇が巻きつく、玄武。
「おお……!」
穢すべき存在の登場に、佩芳は感嘆の声を上げる。そう、これを穢し、盤古の力で陰の気をまとわせなければならない。
「待っていたぞ、天乃四霊!」
叫んだ刹那、天乃四霊が放つ柔らかなきらめきが、粒子となって体へと入りこむ。
(佩芳、戻ってきて)
びくりと体が跳ねた。厳しい声。切羽詰まった、焦燥した声にはどこか、聞き覚えがある。そう、この声を知っている。声の主を知っている。
(お前は王族の使命を果たすのですよ)
別の女の声がする。これも、わかった。母の声。優しく甘い、母の声だ。
「我は」
今すぐ母の胸の中、眠りたい。そう思うのに、目にも鮮やかな輝きがホタルのようにまとわりついて、体全体を、心の内をかき乱す。
「うあ、ああっ」
きらめきが邪魔くさい。光がうっとうしい。治まったはずの頭痛が、悪寒が再び佩芳の体で暴れる。
(佩芳!)
厳しい声から逃れようとした。だめだ、こだまのように鳴り響き、聴覚を揺さぶっている。血反吐を吐き、環首刀をあちこちに振り回して暴れた。苦しく、息が切れる。その間にも声はやむことなく響き、頭の中へと入りこんでくる。
「わ、れは」
天で飛び跳ねる四霊を見上げた。赤、白、緑、黒。まばゆい光はただただ、美しい。
そのさなか、陽炎のように姿が浮かぶ。三人の姿が。
藍洙の幻が見える。
宇航の幻が見える。
連杰の幻が見える。
誰もが優しい笑みをたたえ、こちらに手を差し伸べていた。
(((お前の居場所は、土鱗だ)))
宝玉を見る。闇と血で作られたものを。夜霧よりも深い暗闇に、笑う。
(佩芳っ)
同時に響く、まっすぐに、ただ自分を求めてくれる声音。誰よりも愛しいものの、声。
「『私』は」
両手で環首刀を握り締める。
「私の居場所は私が決める!」
光よ、と白い瞬きを生み出し、刀剣をそのまま宝玉へと振り下ろした。