4-5:信じ、託せ
宮から飛び出した佩芳が見たのは、瓦礫の山と腐臭を漂わせる沼地だった。
あちこちに見知らぬ紫の草葉が生い茂り、それらは金冥の兵士が灯す白い光に照らされている。強い風に吹かれ、音を立てる葉は不気味としか言い様がない。
水分が多い地面は歩くたび、粘着質な感触をもたらしてくる。そこら中に転がる石や煉瓦をよく観察すれば、砂漠宮と同じ、蛇らしき紋様が刻まれているのがわかった。
夢魔は、いる。どこよりも濃い夜霧のもと、傑倫が率いる兵たちと交戦中だ。
背後で微かな音がする。振り返れば、砂漠宮が地中に戻っていくのが見えた。仲間の一人が石灰石で瓦礫にバツ印をつけている。負傷者を宮に戻すときの合図や段取りは織り込み済みだ。
ようやく暗闇に目が慣れてきた。とはいえ、光源がほとんどないため凝らして見なければ先の様子もわからない。
「どうだ、佩芳。あいつの気配を感じるか」
「試してみましょう。少しだけ時間を下さい」
泰然にいわれ、佩芳は目をつむる。集中し、宇航の居場所を探ってみる。
混沌とした気が、直線上の道の先にあった。五行とはまた違う、どこか母の気配を思わせる何か。同じ血筋でしか感じ取れない感覚が、体の中で渦を巻く。
「この先、直線。一里もありません。そこに宇航と思しき感覚があります」
指を差した。今のところ、道には紫のヤナギと藪が生い茂っているだけで、夢魔の姿は見受けられない。
「夜目が利く俺たちが先を行きます」
数人が小声で告げた。佩芳と泰然はうなずく。
岩場や瓦礫に隠れるようにして、風のように走った。ぬかるみのある地面に足をとられないよう慎重に、それでも素早く、先へと。
恐ろしいほど順調に進む。金冥の軍へ全ての戦力を注いでいるのか、それともまだ何か、宇航は隠しているのか。佩芳には後者のように思えてならない。
褲を、靴を汚すこともいとわず、気を引き締めながら道を行く。しばらくすれば、石畳で舗装された広間へと出た。
折れた円柱が沼に突き刺さっている。破壊の限りを尽くされた壁は積み上がり、灰色の苔にむしばまれていた。辺りに咲く紫紺の草花からは不快な香りがする。
「なんかここ、造りが違うな」
「ええ。もしかすれば、中央大陸仕様の宮だったのかもしれません」
泰然の言葉に首肯した、そのときだ。
ぴゅーい、と聞き覚えのある鳴き声が、響く。
「暁明鳥……!」
全員が一斉に武器を構えた。
天を仰げば、夜霧の中でも色鮮やかな鳥の群れが、こちらへと滑空してくるのが見える。
旋回した暁明鳥は、数十羽はいるだろうか。金糸にも似た尾をなびかせ、群れが次第に一つの塊となる。巨大な両翼を広げ、佩芳たちの前へ立ち塞がるように着地した。
紫紺の瞳に宿るのは、明確な殺意だ。くちばしを開き、暁明鳥は今までの鳴き声とは縁遠い咆哮を放つ。仔静を殺した夢魔、その声に少し、似ている。
「光を!」
青竜刀を両手で握り締め、泰然が叫んだ。
光源士の数人が白い光を放つ。まばゆい輝きはしかし、暁明鳥を怯ませるには至らない。
「気をつけて下さい! これは夢魔とは違う」
佩芳も声を張り上げた。
元々生息していたとされる生命を、宇航がなんらかの力で操っているのだ。夢魔に効果的な光も、もしかしたら五行すらも通じない可能性がある。
暁明鳥は金属を擦り合わせたような鳴き声を上げたと思えば、再び浮遊した。片翼を振り上げた瞬間、棘にも似た細い羽が飛んでくる。
「土よ、壁となれ!」
佩芳は堅牢な土壁を作り上げ、羽を受け止めた。羽が壁に突き刺さった瞬間、全身が熱く痛む。宇航ほどではないがこの鳥の力も強い。脂汗が流れ、白髪が額に自然と張り付く。
「土の五行を使える奴は壁を作れっ。弩で目か足を狙え!」
泰然の指示に仲間たちが素早く動いた。
作り上げてもらった土塊を背に、佩芳は一度術を解く。
「佩芳、お前は隙を見て先に行け」
「あなた方を見捨てて行けと?」
「見捨てる? オレたちがこんな鳥に負けるわけないだろ」
泰然はにやりと笑った。周りにいる人間、全員が自信ありげにうなずく。
眉をひそめ、佩芳は思案した。暁明鳥は強い。みな、まともにやり合う覚悟らしいが、無傷で済むはずはないだろう。
仔静のことを思い出す。死をもって、命を賭して美玲のもとへと導いてくれた彼のことを。
泰然や住人たちが死ぬのは、正直いっていやだ。だが、自分が見事宇航を倒すことができたなら――鳥の動きを封じることも可能ではないだろうか。
敵の頭を叩き、全てを終わらせることができるのは、自分しかいない。
数秒ののちに決意する。
「わかりました。言葉に甘えましょう」
「ああ。暁華と一緒にとっとと帰ってこい」
「あなたたちも……どうか、無事で」
「心配すんな。鶏肉は好物だからな」
泰然の物言いに、みな、笑った。複雑な笑みを浮かべたあと、佩芳は土塊の壁から静かに様子をうかがう。
暁明鳥が、飛んだ。前からではなく、空中から攻撃しようともくろんだのだろう。
「走れ、佩芳!」
泰然が雄叫びを上げ、佩芳の背を突き飛ばす。
たたらを踏みつつ、佩芳は全力で走った。ぬかるみに滑り、泥にまみれてもなお、振り返ることをせず。
羽の追撃はこない。暁明鳥がまた、鳴いた。
「お前の相手はオレたちだっ」
刃物と何かがぶつかる音。痕術を発動させる声。軽く揺れる石畳。
それらを背に、佩芳は振り返らず進む。せっかく彼らが、仲間が作ってくれた好機を見逃すわけにはいかない。
悲鳴と血の匂いが耳と鼻に滑りこんできても、立ち止まることを許しはしなかった。
「……しるべとなれ、光よ」
少しずつ、五感を刺激していた匂いや音が遠ざかっていくのを確認し、環首刀を抜き放つ。刀身の先に薄い光源を生み出せば、辺りの様子が僅かに露わとなった。
途中まで崩れた壁が左右にある。文字らしきものと蛇に似た生き物が刻まれたそれは、曲線を描いていたのか。なんらかの骨、あるいは丸めた爪を連想させる壁は、奥が細い。
沼地からか草木からか、鼻をつく悪臭に構わず、気を引き締めて先を行く。
道と壁の作りを見て、どうやらもとは瓢箪型をしているのだと気付いた。中央部、一番狭まった箇所に差しかかったとき――
「遅かったな、半端者」
場にそぐわないほど柔らかな、宇航の声が響く。思わず身構えた佩芳をどこか遠くから見ているのだろうか。すぐ近くに姿はない。
「奥に来い」
いわれて、呼気を整えるように鼻から息を吐く。
声に導かれるまま、石畳の道を進んだ。邪魔立てする夢魔も鳥も、見当たらなかった。
しばらくすれば、難なく一番開けた場所に出る。
真っ正面にあるのは、壊れた玉座らしきもの。玉座の横にあるのは石の台座だ。
「暁華!」
その上に、愛しいものの姿を見つけて叫ぶ。泥で汚れた服に包まれたまま、彼女はぴくりともしない。
「騒ぐな、耳に響く」
「……宇航」
玉座の裏から現れ、満面の笑みを浮かべる叔父を、佩芳は憎しみをこめて見つめた。