4-3:呪われた身なれば
佩芳の家から少し遠くで、兵士たちの歓声が聞こえる。あてがわれた部屋の中、休息をとりつつ傑倫の鼓舞に耳を傾けているのだろう。砂漠宮の住人たちも兵や馬に食事を持っていったりと、せわしない様子を見せていた。
美玲の取りなしで傑倫はすぐさま宇航の下、土鱗へと出陣するのをやめた。彼女いわく、通常馬でも三日はかかる距離の土鱗まで、今いる場所から半日で行くことが可能らしい。
決戦は明日。一般的に、光源士が藍色の光から朝を示す橙の光に変える頃を見計らって、移動を開始するという。
(美玲を疑うわけではないが、どのような秘策があるというのか)
佩芳は、紅翼が持ってきてくれた食事に軽く手をつけたのち、鞄から取り出した短刀を眺めて思案する。自分の顔が、欠けた刃の表面に映っていた。
寂しそうなおもてだ。事実、胸に穴が開いた気分に苛まれている。
いつもなら、すぐ側に笑ってくれる暁華がいた。表情を変え、一日何があったかを面白おかしく話してくれる彼女がいた。だが、今はただとてももの悲しい。
暁華がいないだけで心が苦しかった。長年孤独と共に生きてきて、独りには慣れていたはずだ。だというのに、彼女の存在はすでに佩芳にとって、欠かせないものとなっている。
「寄る辺」
一階のがらんとした室内に、自分の声だけが大きい。
傑倫に述べたこと、彼女が佩芳の心の拠り所となっているのは事実だ。暁華がいるならどこへだって行ける。誰もいない森の奥だろうと、深い川の中だろうと、夜霧の中だろうと。
だからこそ彼女を救いたい。暁華と共にありたい。否、命を落としても愛しい彼女だけには、どうか微笑んでいてほしい。
なのに、手が震える。無意識のうちに死を怖れている自分がいた。
「……この短刀は媒体になり得ないか」
嘆息し、刀を机の脇に置く。
光の術を使うには精神力と体力、そして天乃四霊をかたどった刀環つきの刀剣が必要だ。来訪した兵から借りようか、とも考えたが、呪痕士である自分はきっと忌避されているだろう。傑倫が許可を出すとも思えない。
寝る前に美玲の下へ行き、媒体となるものを貸してもらうべきか――そう思い、椅子から立ち上がったときだ。
控えめに扉を叩く音がした。
「佩芳兄ちゃん、おれ。恩」
「恩?」
届いた声にいぶかしむ。今は夜更けだ。こんな時間に子どもがなんの用で来たのだろう。
近付き、扉を開けると、布の包みを持った恩がこちらを見上げていた。
「どうしたのですか。どなたか急患ですか?」
「違う。渡すものがあって」
言って、彼は包みを捧げるように押し出してくる。
「これは……」
黄色い布を開き、目を見張った。刃渡り約一尺はある環首刀だ。
金色をした円形の刀環には麒麟が精緻に彫られており、まっすぐとした刃部分には欠けすらない。柄には獣皮が巻かれている。
確かこれは、宇航が水晶を砕いた際に使ったものではないだろうか。
「なぜこんなものを持っているのです」
「おれ、鍛冶屋の師匠に世話になってるんだ。その師匠が拾ってて。最初はあの赤毛にやろうと思ったけど、なんかやだから佩芳兄ちゃんへ渡しに来た」
「あなたは泰然のことが嫌いですか?」
泰然のことを未だ『赤毛』と呼ぶ恩に、つい苦笑が漏れた。
恩は難しい顔をしつつ、そばかすのできた鼻をひくりと動かしながら口を開く。
「佩芳兄ちゃんや暁華姉ちゃんのことは、好きだよ。暁華姉ちゃんは怒ると怖いけど。でも、いつも遊び相手にもなってくれた。赤毛は……美玲様を苦しめてるから」
「恩。私も以前は暁華に辛く当たっていたのです。あなたももう少し大人になればわかりますよ。苦しさや辛さ、その裏にあるものが」
「……そうかな」
唇を噛みしめる恩へ、佩芳は腰をかがめて頭を撫でた。恩の瞳には涙が溜まっている。
「佩芳兄ちゃんも戦に出るんだろ? 暁華姉ちゃん……無事かな」
「必ず救い出します。そのためにこの刀剣は使いましょう。ありがとう、恩」
「ん」
乱雑に服の袖で顔をぬぐい、少年は無理やりにだろう、それでも笑った。
「もう夜も遅い。家へ戻りなさい」
「わかった。お休み、佩芳兄ちゃん」
うなずけば、恩はネズミのようなすばしっこさで住宅区の方へと戻っていく。
「行ったか、あいつ」
恩の背中が消えたと同時に、聞き慣れた声が響いた。横を見ると、いつの間に隠れていたのだろうか。泰然が建物の影から姿を現す。
「あなたも恩とは顔を合わせたくないようですね」
「別にそんなんじゃないけどな。……少し飲まないか。老酒がある」
「構いません。どうぞ、中へ」
小さな酒壺を掲げた泰然へ苦笑を浮かべ、自宅へと案内した。
彼は自分と同じく普段着だ。服の合間からは包帯が覗いている。
「体の方はどうですか」
「青竜刀をぶん回してもいいくらいに回復してる。あんたの薬、よく効くな」
「無茶はなさらず。……次の戦では、私は医者として参加はしないつもりですから」
青銅の酒器を二つ用意し、椅子に座った泰然の前に置いた。正面に腰かける。恩からもらった環首刀を机の端に載せれば、酒を注ぐ泰然が目を細めた。
「人を殺したこと、あるか」
「いいえ。私は医者です。救うことはあっても、殺害したことはこれまでにない」
「刀剣の使い方に慣れてるってわけでもなさそうだな。策は?」
佩芳は何も答えず、酒器を傾けて琥珀色の液体を嚥下した。独特の香りが鼻を突き抜ける。
「策というほどでもないですが、私にはまだ、五十年分の寿命がありますので」
「相打ちで死ぬ気か」
「死は、身近なものだと思っていました。どこへ行ってもまとわりつく影と同じようなものだと。正直なところ、あなたたちと旅をしているときも、犠牲になることすら考えていた」
眉をひそめる泰然に、器を手でもてあそびながら苦い笑みをこぼした。
「ですが今は……少しばかり、恐ろしい。宇航を殺すことにためらいはありません。暁華を救うためならば、とも思う。それでも私が死に、彼女の記憶からいなくなると考えると」
「共に生き共に死ぬ。そりゃ立派な恋で、愛だ。そんな二つを抱いてるなら死を怖れるのは当然のことだろうさ。あんたはようやく、今を生きはじめてるってところだろうな」
笑いつつ、泰然は豪快に酒をあおる。
二杯目を注いでもらい、佩芳は少しばかり考えた。
生きていたい。暁華を無事に救い、彼女と共にありたい。死への恐怖を呼び起こすまでの思いはとどまることを知らなかった。
「……あなたはどうなのです。美玲とは、上手く?」
胸を穿つ気持ちを抑え、話を変えれば、彼は声を大きくして笑う。
「ああ。やっぱりあんたの言うとおりだった。オレを巻き込みたくないから逃げたんだと。笑わせるよな。オレがどれだけあいつを好きかわかっちゃいないんだ」
「彼女もあなたに好意を寄せているようですが」
「ん。だからこの戦が終わったあとは、とっととオレに抱かれろって言っといた」
「心の準備をさせないのですね」
「十分させてたさ、今まで。夜這いしないだけ理性を保ってるだろ?」
にやりと口の端をつり上げる泰然に、曖昧な笑みを返す。同時に思った。もしかすれば、彼は美玲の下に行くことを我慢するため、自分の家へおもむいたのではないかと。
それでも構わない。泰然と話すことで気持ちが幾分か落ち着いた。手の震えも収まっている。男同士、腹を割って会話するのもいいものだ。
「ところで肴、ないか?」
「余りものですが、干し肉と蓴菜の酢漬けがあります。それで我慢して下さい」
辺りを見渡す泰然の言葉に、佩芳は立ち上がって庖厨側の戸棚を開いた。紅翼が持ってきてくれたものだが、ほとんど手をつけてはいない。
皿を出すと、遠慮なく羊の干し肉を指でつまんだ泰然が、再び笑った。
「今日は朝まで付き合えよ、佩芳」
「ええ。老酒で酔うほどやわではありませんので」
「言ったな」
三杯目の酒を注いでもらい、二人で酒器を傾ける。美味いと感じると同時に、虚しさが少し緩和されているようだ。
ここに暁華がいたなら、どんなに幸せだろうか。
幸福のため、命を賭けること。二人で生死を共にすること。その二つの感情を得て、今、はじめて自分は生きている。なかったはずの生への執着。愛。思い。ひりつくような酒精に似た感覚は、士気を高揚させるに充分すぎた。
(必ずあなたを取り戻す。どうか無事で、暁華)
ここにいない愛しい存在のおもてを脳裏に浮かべながら、机の脇にある環首刀を見る。
獣脂の明かりにきらめくそれを握り、振りかざす自分を想像してみた。光の術を使う姿も。医者をしているときよりも遙かにしっくりきて、酒器で隠れた唇を歪めた。
呪われた生まれの自分には、きっとふさわしい行為だ。人を、親類を殺すという事柄は。
――刀は心中の思いに答えず、ただ静かに輝いている。