4-1:暗澹なる怒り
泰然は打撲程度で軽傷だった。体を乗っ取られていた傑倫は、数十刻の間熱を出していたが、今は話せる程度には回復している。他の住民にもほとんど被害は出なかった。
宇航が連れていた、騙していた金冥の兵士たちも無事だ。砂漠宮へと彼らを呼んだのは、美玲の指示でもある。ここにはどうやら秘密の通路があるらしい。そこを通り、住人たちは出入りをしていると説明を受けた。
「悪い」
薬を渡しに美玲の部屋までおもむいた佩芳へ、牀褥に寝ていた泰然が謝罪してくる。
「話は美玲から聞いてる。オレがもっと強かったら」
佩芳は何も言わず、粉薬が入った包みを台へと載せた。
「暁華、さらわれたんだな」
泰然のささやきに、指が一瞬、ぴくりと動く。
鬱屈とした気持ちになった。どうにもできなかった無力感。宇航を前にして、やすやすと暁華を連れ去られた事実。怒りと嘆き、絶望がない交ぜになって自分の胸を穿つ。
「あいつは何なんだ? あんたの知り合いか」
「……土鱗の国の王族、宇航。私の叔父に当たる男。まさか生きているとは思いませんでした」
吐息に獣脂の灯りが揺れる。火が消えかけていたのに気付き、つぶやきで再び炎を灯した。
「やっぱ強いな。暁明鳥を操る真似までするなんて、どの五行にも属さない。不思議な力ってやつか。あいつは何をもくろんでる?」
「滅びを待て、とまでは言い放ちましたが、具体的にはわかりません」
泰然が唸るように口をつぐみ、会話をやめた。
何も考えたくはない、と佩芳は思う。こうして医者としての務めを果たしているのは、動いている方が楽だからだ。手を動かし、病人たちの元へ足を運ぶことで思考を放棄している。
「薬は一日に三回。その分をまとめておきました」
「あんた、このままでいいのか?」
泰然の疑問に何も言わない。言えない。話すことすら億劫で、体が重かった。
「もしかしたら暁華が死ぬかもしれないんだぞ」
「そんなことはわかっています!」
苛立ち混じりの大声が出た。泰然の方を向き、どうにもならない気持ちをぶちまける。
「私に何ができると? 半端な力しか、痕術しか使えない私に、暁華が救えると思いますか。宇航の力はあなたも知っているでしょう。私は、私には彼女を助ける手立てもない……!」
「佩芳」
痛ましい顔で泰然が目を細めた。それすら不愉快に感じ、佩芳は机を拳で叩く。
「何が呪痕士だ。例え痕術を使えたところで宇航には通じない。彼らがどこへ行ったのかもわからない。助けたいのに、暁華を救いたいのに!」
唇を強く噛み、肩で息をする。ここまであけすけに怒気を表したのは、久方ぶりだ。
悔しかった。虚しかった。今の自分はただの男だ。慕情を抱いた女も守れない、無力な男。
「少し安心した」
唐突に泰然は言う。意味がわからず、ただ彼を睨みつければ、彼が上体を起こし苦笑を浮かべているのが見えた。
「あんた、ちゃんと人間なんだって思ってな。最初会ったときはこう……生きた氷みたいな感じがしたからさ」
「……だとすれば、私を変えたのは暁華です」
「そうだな。あんたが諦めなきゃきっと暁華は救える。だろ、美玲」
「わ、わたくしがいること、わかってましたの?」
扉が開き、赤い顔をした美玲が部屋へ入ってくる。彼女の手には包帯があり、どこか落ち着かない様子だ。
「別に、泰然様が気になったというわけではないのですわ。佩芳様がいらっしゃると聞いて」
「へいへい。照れなくてもいいっての」
「照れてません。あ、あなたの心配なんてしてないのですわ」
「美玲」
うつむいたまま包帯を机に置き、爪先を鳴らす美玲に、佩芳は口を開いた。
「あるのですか、暁華を救う手立てが。あるならば教えを請いたい」
「……まだ、佩芳様に話してないこともございます。望むのであらば、全てお話しますの。わたくしが知ったこと、知ること、その全貌を」
ただうなずいた。真実を得て暁華を助けられるならば――そう思いつつ。
美玲が近くの本棚から本を取り出した。古文書ではなく、糸で綴じられた素朴な書物を。
椅子を勧められて腰かける。泰然も牀褥から起き上がり、話を聞く体勢をとっていた。
「これは日記ですの。わたくしに降りた天啓と、土鱗の伝承をまとめてますわ」
「あなたがはじめて天啓を得たのは?」
「十歳のときですの。怖いほどにおぞましく、怨鎖に満ちた思念は、どの賢人にたずねても覚えがないらしく……そこで思ったのです。わたくしが読み取ったものこそ、夜霧の本性ではないかと」
「確か前、『霊胎姫』の話をしたときに言いかけてたな、お前さん。夜霧は何か、って」
泰然の言葉に、美玲は辛そうに瞳を伏せる。
「夜霧の正体は……四ツ国の面々によって殺された土鱗の帝、連杰ですわ」
ぽつりとささやかれた単語に、佩芳はつい、けわしい目付きとなった。
母の藍洙からも聞いたことのない名前だ。だが、連杰という存在が帝であるとするなら、その存在、夜霧はすなわち自分の祖父ということになる。
ぞっとし、二の腕をさするこちらを見つめて美玲は続けた。
「表の歴史から抹消された名前。存在をなきものとされたもの。誰にも知られず消えていった帝は、四ツ国全てを憎んでいますの。夢魔を産み出すのも、この島全てを滅ぼすため」
「……仔静は言いました。天啓を口にしたものを夢魔は殺しにくる、と。賢人たちになぜ天啓が降りるのですか? 自らの正体をさらすような真似を、なぜ」
「存在の認知。夜霧にはもう、恨みや怒りしかありませんの。忘れられたくない、わたくしたちへ忘れてはならないと知らしめるため、自分のことを思い出させているのだと思いますわ」
「それでいて口にしたやつは殺す、か。矛盾してるな」
「夜霧に理性はありませんの。無作為とした怨念ほど、恐ろしいものはありませんわ」
嘆息する泰然に、美玲は小さくかぶりを振るだけだ。
「宇航は滅び、そして土鱗の再興を待て、と言いましたが……暁華を使って何をしようとしていると思いますか」
「土鱗の伝承を紐解くと、夢魔の元になった物体がありますの。名は、盤古。混沌の源となった存在。天乃四霊を呼び起こし、盤古と呼ばれたそれにより陰の気をまとわせる。すなわち土麟の国で四霊を闇におとしめ、痕を持つ全ての人々の無力化をたくらんでいるのかと」
「盤古、ねぇ。それも中央大陸から持ってきたってやつか?」
「土鱗の古人たちによれば、崇拝の対象だったようですけれど。詳しいところまでは」
美玲の説明を聞き、佩芳は目をつむる。
夜霧が祖父、連杰であることはどうでもよかった。正直、見知らぬ帝に思いを馳せるには余裕がない。頭の中は暁華でいっぱいだった。唯一まともに自分を見てくれた、温もりをくれた娘のことしか考えられないのだ。
「暁華は、天乃四霊を呼び出す方法をあなたから聞いているのでしょうね」
「古文書を見せてしまいましたの。書かれたものを読んだなら……理解していると思いますわ」
申し訳なさそうにつぶやく美玲を、まぶたを開けて見つめた。
彼女を責める気は毛頭ない。問題は、ただ一つ。
「私でも、宇航のたくらみを阻止することは叶いますか」
宇航を止め、暁華を救い出す手立てがあるか。それが一番の懸念であり、疑問だった。
美玲は問いにうなずき、日記を数枚めくる。
「一つだけ、もしかすれば、と考えることがありますの」
「それは一体」
佩芳が思わず身を乗り出したときだった。
「無駄な議論は不要だ」
無作法に扉が開き、冷徹なほど強張った声が部屋に響く。靴を鳴らし、入ってきたのは――
「あれを殺せば問題ない。宇航とやらのたくらみも叶うことはないのだから」
「……傑倫」
苦い顔つきをした、金冥の帝だった。