3-8:彼のものこそは
しばしの無言ののち、笑みを苦笑に変えた傑倫がかぶりを振る。
「賢人よ、我は『霊胎姫』をもらい受けに来た。いるのであろう」
傑倫の声に周囲がざわめいた。夜霧を消し、四ツ国に安寧をもたらすであろう『霊胎姫』。それがこの砂漠宮にいるとは、誰も思っていない。佩芳と泰然、美玲を除いては。
ざわめきを片腕を僅かに上げただけで止め、美玲は凜然と唇を開いた。
「おりません。わたくしたちも見つけていませんのよ、傑倫様」
「嘘はよくない。暁華であろう。虚ろ子のあれが『霊胎姫』ではないのか?」
「なんでそう思う、帝どの」
「泰然。シゴウ砂漠に汝らとあれが入った姿を、秀英が見た。その先はわからぬままだが。しかしここは人知を越えた場所であるゆえに。そう、土鱗の技でできた、な。そこで護られていると考えれば、至極当然のことであろう」
小さく笑う傑倫に、佩芳は何かいやなものを感じた。
「なぜ、この場所が土鱗のものであると思うのですか」
「わかるのだよ、我にはな」
答えにはならない応答をし、傑倫は腰から環首刀を抜く。真っ先に一歩、歩み出たのは泰然だ。
「剣でオレに勝てると思いか、帝どの」
「剣技で争おうとは思っておらぬ。暁華を出さぬのであらば……」
「待って!」
傑倫の言葉を遮ったのは、震えた暁華の悲鳴だった。
佩芳は思わず振り返る。走ってきたのだろう、彼女は遠目からわかるほどに青白いおもてをし、荒い呼吸を繰り返していた。
「暁華……」
「待ち侘びたぞ、暁華。金冥に幸をもたらすもの。こちらに来い」
暁華は何も言わず、衆人の視線もものともせずに中央へと近付いてくる。
そして、相対するとにこりと微笑んだ。
「お久しぶり、兄様」
「うむ。お前も息災で何よりだ、暁華」
「……派手な服ね。暁明鳥の羽でできてるの?」
「装いを気にしているのか。まあ、そうだ。ここいらにはこやつらがよく出たのでな」
「そう」
彼女の顔から、笑みが消えた。恐ろしいほどの厳しい顔つきとなる。
「あなた、誰?」
暁華の問いに、佩芳も含め誰もが呆けた。
傑倫は――暁華と同じく無表情になる。
「あなたは兄様じゃない。兄様は鳥の過敏症だもの。羽なんかつけたら高熱を出す。それにあたしのことを暁華なんて名前呼び、もうしない。あなた……誰なの?」
「ふ……ふふふ」
突然、傑倫が哄笑した。おかしくてたまらない、というように腹を抱え、醜悪な笑みを浮かべる。
「そうか、こやつは鳥に嫌われておったか! 名前を呼ばぬというのも我の過ちよ」
だらりと腕を下げ、背中を丸めた傑倫の体。そこからまるで、さなぎから蝶が生まれ出るように一つの影が形を取る。
音を立てて地に倒れた傑倫のすぐ背後に、黒い影が人型となって現れた。
短くも黄金に光る短髪。白目は闇のような漆黒。それを彩るのは髪と同じ金の瞳だ。額の中央には、一本の小麦色をした鋭い角が生えている。
紫の褲から伸びた足、爪先が上がった白い靴で傑倫を容赦なく蹴り転がしたそれ――男は、肩をすくめた。傑倫は佩芳の足下まで横転し、ただ呻くだけだ。
「兄様!」
「こやつの体に入っておれば、なかなか上手い具合にことが進んだかもしれぬというのに。臣下はだませても、さすがは腐っても兄妹、というところであろうか」
「何者だ、あんた」
青竜刀の切っ先を向け、斜めに体を構えた泰然が聞いた、瞬間。男のおもてが歪む。
「下郎が! 身をわきまえよっ!」
「なっ……」
男が環首刀で空を薙いだ刹那、凄まじい突風が吹き荒れた。見えない空気で泰然が吹っ飛ぶ。
「泰然様っ」
美玲の上げた悲鳴をよそに、彼は青竜刀ごと地面に叩き付けられた。周囲は一気に殺気立ち、各々弓や短刀を掲げる。
「愚か。汝らを殺すなどたやすい」
鼻でせせら笑った男が指を鳴らした。途端、傑倫が羽織っていた黄金の外套がせり上がる。一羽、一羽、また一羽と――暁明鳥の大群となって宙に漂う。
「皆様、逃げて!」
「遅いな」
男の指の動きに合わせ、鳥たちが住人たちを襲おうとした、直前。
「火よ、壁となれ」
佩芳は咄嗟に五行を繰り出す。巨大にうねる灼熱の壁。数羽、飛び込んだ鳥が焼け焦げる。
「痕術は使えるか。ではこれはどうか」
男が笑う。楽しそうに、嬉しそうに。再び指を鳴らせば、鳥たちは水流へと姿を変えた。
「土剋水!」
瞬時に佩芳は対応する。今度は住人たちを囲うように、堅牢な土壁を紡ぎ上げた、が。
水の勢いは強く、突き出した両腕が震えた。脂汗が出る。鳥が変化したとは思えない濁流がぶつかるつど、体の内側が激しく殴打されていく感覚に陥った。
「皆様、今のうちです! このものに対して勝ち目はありませんっ!」
「で、ですが」
「暁華様を連れて、早く奥へ!」
背後で叫ぶ美玲を、もっと後ろにいる暁華を振り返ることは、佩芳にはできない。気を散らせば壁は一瞬で壊れるだろう。それほどまでに強い力だ。
「佩芳、といったな、確か」
ひびの入った土壁の向こうから、男の声がする。
「藍洙はもう死したか」
その言葉で、たった一つの単語で、佩芳は男の素性を把握した。
「……宇航」
「叔父貴と呼べぬのか、半端者」
嘲笑の声音を響かせた男――いや、宇航は不意に水を暁明鳥へと戻す。金色の鳥を背後にはべらせたのを見て、佩芳はその場に片膝をついた。
息が苦しい。全身に現れた痕が発熱している。全力の痕術でも守備に回るだけで手一杯だ。一方の宇航は余裕の笑みを浮かべたままで、余力に満ち溢れていた。
それにしても、と回らない頭で佩芳は思う。
暁明鳥を操るなど、どんな痕術でも叶わない芸当だ。やはり土鱗の国のもの、特に王族に連なるものは、美玲が以前言ったように別の力を使うことが可能なのかもしれない。
(このままではみな、殺される)
最悪の想定が脳裏をよぎった。唇を噛みしめ、何とか立ち上がる。
背後を盗み見ると、十数名の住人たちがそれぞれ泰然や暁華を取り囲んでいた。
時間を稼ぐため、佩芳はなるべく冷静を装い口を開く。
「あなたはなぜ『霊胎姫』を欲するのですか」
「あいのこに話す必要はない。……ふむ、ここにはもう一つ鳥の気配がする。それを使うか」
必死の問いかけすら一笑に付し、宇航は妙なことを言った。
はっとする。鳥――泰然が胸につけていた、暁明鳥の羽。
「逃げなさい、暁華!」
「え……」
振り向き、叫んだ。目線の先にはもう、居住区から飛んできた巨大な暁明鳥が翼を広げ、暁華の元へと迫っていた。
「射貫けっ」
住民たちが矢を放つ。しかし鳥は素早くそれらを躱し、人々の中央にいた暁華の肩を掴む。そのままやすやすと彼女の体を持ち上げた。
「いやっ、離して!」
「暁華っ」
「五行相乗たるは木乗土。満ち足りて……きゃっ」
「邪魔はさせぬ」
宇航が環首刀を投げ、美玲の手にあった水晶を粉々に砕く。かけらがきらめく中、ふわりと体を宙に浮かせて彼は高笑いをあげた。
「手に入れたぞ、『霊胎姫』!」
「やだ、離してっ、降ろしてっ!」
鋭い爪で肩を握られているためか、暴れることもできず暁華は苦悶のおもてを作っている。
佩芳も動こうとした。だめだ。走り寄ろうにも、疲労で足が言うことを聞いてくれない。
「これで我が願いは成就する! 下郎ども、震えて滅びと土鱗の復興を待つがいい」
「佩芳、佩芳っ」
名を叫ぶ暁華の体が、霧――夜霧に包まれていく。
佩芳は手を伸ばした。届かない。側にいるのに、届くことはない。
歯噛みしながら震える足に力を込めて駆けた刹那、暁華は消えた。暁明鳥を引き連れた宇航も、また。
佩芳は脱力し、両膝をついたまま二人が去った場所を見つめる。
(暁華)
腕が、落ちる。
(暁華、暁華……暁華!)
暁華の笑顔や泣き顔、たくさんのおもてが脳裏に浮かんで消えた。
(この程度の力量で、何が呪痕士だ……)
はじめて心から自分の身を、呪った。
第四幕に入るところで不定期更新となります。
なるべく早く続きを書きますのでしばしお待ち下さい!