3-6:共に、一つに
彼女がいくらすばしこいとも、男の脚力に敵うはずがない。佩芳はすぐに、暁華の後ろ姿を捕らえる。
暁華は自室ではなく、近くにあるヤナギの林へと入っていった。周囲は夜を示しているのか暗く、光源の大半が消え失せている。代わりにホタルの幻想的な色が目にまぶしい。
赤に近い黄色、黄緑の光。それらをまとわせながら、彼女は一人立ち尽くし、すすり泣きの声を上げていた。
彼女を慰めるようにホタルが飛ぶ。幽玄さと艶美が混ざった、得も言われぬ空間を作る暁華に、佩芳は再び見とれてしまう。
白い頬を伝う涙、紅が塗られた唇――顔は歪んでいたが、ホタルに輝く一つ一つの部位に、自然と喉が鳴った。
勝手に足が先へと動く。小枝を踏んだ瞬間、乾いた音が辺りに響いた。
暁華がびくりと肩を震わせ、それでもゆっくりこちらを向く。
「佩芳……」
虚ろなおもてだ。佩芳が今まで見てきた中で、最も生気のない顔つき。
「美玲に言われて来たの?」
「いいえ」
返答が勝手に口を突く。暁華は困ったように、力なく笑った。
「ごめんね。あたし、どうしていいかわかんないんだ。いきなりって感じだし、それに」
「無理に話す必要はありません」
「……優しいね。昔から思ってたけど、佩芳はずっと優しい」
「私は自分のことしか考えていない人間です」
佩芳が彼女の側に寄ると、杜若ではなく梅花の柔らかい香りがすることに気付く。
「誰だってそうだと思う。自分のことしか考えないよ。でも、嘘でも気にかけてくれたことはすっごく嬉しいな」
落涙で崩れた化粧を手で拭い、気丈に笑う暁華が痛ましい。
痛ましいと思うこと、それは優しさなのだろうか。哀れみなのではないのか、佩芳は悩む。迷った末、暁華の横に沈黙したまま腰を下ろした。
「ここって平和だね。夢魔もいないし、みんな楽しそう」
「ホタルまでいるとは思いませんでした。誰も、何も気にしない。私のことですら」
「四ツ国もこういうところになるのかな? あたしが……『霊胎姫』の力で、天乃四霊を呼び出すことが本当にできたら、みんなが幸せになるのかな」
横に座った暁華は膝を丸めた。青ざめた顔の横を、ホタルが通り過ぎていく。
「みんな、ということは考えなくてもいいのでは?」
「……どうして?」
「あなたがそれを望んでいないのならば、心に嘘をつく必要はありません」
佩芳は微苦笑を浮かべた。随分と丸くなったと思いながら。
「もしかして佩芳、今は本気であたしの心配、してくれてる?」
「どういうわけか」
「やめて。泣きたくなるから」
「ここには私しかいません。泣きなさい、好きなだけ」
唇を噛みしめた暁華の手に、手のひらを重ねる。温かくて滑らかだ。細い指を軽く握り締めると、彼女はそっと肩に頭を載せてきた。
暁華が誰と、何度他の男と肌を重ねていようと、今は嫌悪感を覚えない。不思議なものだ、とぼんやり感じる。はじめて事実を知ったときは嘔吐までしたというのに。
いや、その拒否反応はもしかしたら、別のところから来たのかもしれない。
顔なじみの少女が女性に様変わりした――しかも己の知らぬところで、自分以外の誰かに手折られたことに対する衝撃。そう、紛れもない腹立たしさを無意識に覚えていたのではないか。
(身勝手なものだ)
内心歯噛みしつつ、暁華へと視線をやった。彼女もこちらを見ていた。白い瞳は涙のためか潤んでおり、それがまた幽玄的な美しさを醸し出している。
暁華から漂う梅花の香りを、佩芳は静かに吸いこんだ。甘い。脳髄を痺れさせるほどに。
今まで覚えたこともない欲が、とめどない思いが、洪水のようになだれこんでくる。
欲しい、と思った。寄る辺以外ではじめて、別のものを得たいと。
獰猛なまでの欲求は思考を停止させ、男としての本能があらわになりはじめる。彼女を強く抱擁したいと思う反面、僅かに残る理性が歯止めをかけていた。
(このままでは暁華を傷付ける)
唯一残った理性のひとかけら。しかし、それを壊すように暁華が微笑む。
「昔、言えなかったこと、言っていい?」
「昔……?」
「好き」
ぞくりと背筋に何かが走った。心身が強張り、だが鼓動は速まる。
「はじめて会ったときから、佩芳のことが好き。どうしても忘れられなかった」
「……私とあなたは遠縁の間柄です」
「知ってる。翠嵐や兄様から聞いてるから。でも、佩芳はずっとあたしの話とか笛とか聞いてくれてたよね。優しいな、って思って……胸がいっぱいになったの。また会えて、凄く幸せ」
「暁華……」
「もっと呼んで。佩芳に名前呼ばれると、生きてる実感がするから」
暁華が身を押し付け、肩に頬擦りしてくる。ホタルをまとわせながら。
「勝手で、わがままでごめん。言わないとまた……後悔しそうだったから」
美しいから好ましいのか。似たもの同士だから慕うのか――脳裏をかすめた疑問はすぐに霧散する。
描き出されたのは彼女の表情全てだ。幼いときのものではない。泰然や自分に向けていたおもて、ころころと変わる暁華の顔つきが泡のように浮かび、弾けた。
(暁華が、欲しい)
好いてくれていることへの喜び。思いやりたい気持ち。複雑な感情はとぐろとなり、保っていた理性はすんなり破壊された。
手を外し、そのまま暁華の頬を撫でる。滑らかで柔らかい、素肌の感触。
暁華が目を閉じた。佩芳を待ち望むように。
佩芳は静かに唇同士を重ねる。熱い。被さった場所が心臓のように脈打つ。
長い黒髪ごと彼女の体を抱き締める。十年の月日を取り戻すように、最大の力で。
「暁華」
耳元でささやき、暁華へとのしかかった。背中に手が回される。
二人だけの空間で、衣擦れだけの音が大きく響いた。
佩芳は何度も暁華の名を呼び、感じたことのない法悦を貪る。互いの荒い呼気、肌を深く重ねるごとに強まる喘ぎが耳に心地よかった。
暁華との血の繋がりも、己が土鱗の人間であることも忘れた。今はただ、熱と思いを共有していたい。こみ上げてくる愛しさはとどまることを知らなかった。
何度放ったかわからないほどに、欲の滾りを暁華にぶつける。彼女は抵抗しない。受け入れてくれる事実に心が安らぐ。
柔らかい体躯。張りつくきめ細やかな肌。暁華の肢体をどこまでもまさぐり、二人で果てる。
哀れみも慈しみも安寧も、寂しさすら一つにして。