3-5:虚ろ子こそが
沈黙がまた、降りた。乾いた笑いを暁華が上げ、机の端を指先で叩く。
「や、やだ。美玲、何言ってるの? あたしは虚ろ子だよ? なんの力もないよ?」
「虚ろ子だからこそ、『霊胎姫』なのですわ」
「……どういうこった。いや、そもそも『霊胎姫』っていうもんは何を示してるんだ?」
難しい顔で腕を組み、泰然が問う。佩芳もうなずいた。
「ここを見て下さいませ」
中央にある本をまた開き、美玲が数枚目を指し示す。
そこには一つの画があった。一人の女人が地で踊っている水墨画だ。女人の周囲に描かれているのは、青竜、白虎、朱雀、玄武――すなわち天乃四霊。
上の項目に、何やら文字のようなものが記されている。やはり佩芳には見覚えがあった。
母、藍洙が狂乱する中、禁忌の宮に爪で書いていたものと同じだ。幼いときはただのひっかき傷だとしか思えなかったそれに、何かの意味があることをはじめて知った。
美玲がこちらの様子を眺め、続ける。
「最も古い歴史を持つ土鱗の国を中心に、四ツ国は少しずつ形になっていきましたの。土鱗の国内で争いがあり、追放されたものたちが金冥などのいしずえを築いていったと。彼らは天乃四霊を呼び、守護神として奉ることで痕を得た。そして痕術が誕生したのですわ……今から五百年以上も前のことだそうですの」
「じゃあ土鱗の連中が呪痕士だ、ってのはなんなんだ?」
「土鱗の古代人は、痕に頼らない力を持っていたと聞いたことがあります。すなわち、別の力を操れる存在。呪痕士とは四ツ国の人間が名付けただけのもの、でしょうか」
「そのとおりですわ、佩芳様。土鱗の人間は、中央大陸から移住してきた、との記述もありましたの。中央大陸にはわたくしたちの知らない術や道具が、まだまだありそうですわね」
目を輝かせる美玲をよそに、うつむいている暁華がそのまま、ぽつりとつぶやく。
「それと『霊胎姫』になんの関係があるわけ?」
「失礼しましたわ。四ツ国の最初の指導者となった四名は、一人の娘を依代として天乃四霊を降ろしたのです。それこそすなわち『霊胎姫』。書かれている言葉を読み上げますわね」
一つ咳払いをし、美玲は指で字をなぞりながら唇を開いた。
「『天乃四霊は虚ろを好む。虚空より来訪せし天乃四霊、寄る辺とすべきは虚ろなるもの。娘は宿す。五行全てと天乃四霊を。我ら四名、娘を『霊胎姫』と命名す』……」
「要は、だ。虚ろ子だったら消えちまった天乃四霊を呼び出せる、そういうことか?」
「だと思いますの。現在、忌むべきものとして虚ろ子は周知されてますけれど、歴史が正しく伝わっていなかった……そういうことになりますわね」
「天乃四霊を呼ぶことで、一体何が得られるのでしょう」
「仔静が皆々様に教えたとは思いますけれど、夜霧は混沌とした、天に背いた生き物。一方、天乃四霊は万物を正しく律することができる存在。すなわち相剋の関係……簡潔に言えば夜霧を滅ぼせるものと解釈できますわ」
「天乃四霊により、四ツ国を囲う夜霧を排除できる……」
佩芳の確認に美玲は小さくうなずき、泰然は腕を組んで溜息をつく。
とんでもない話だ、と佩芳はかぶりを振った。
二百年、四ツ国を包んできた牢獄。ありとあらゆる痕術でも、学者の知恵でも、決して破ることができなかった夜霧を排することが可能だとは。しかもその鍵となる存在が暁華だと、誰が思っただろう。
「美玲。あなたは『霊胎姫』に何を望んでいるのですか」
「このまま夜霧が世を包んでいれば、いずれ今まで以上の強い夢魔によって、わたくしたちは滅亡してしまう危惧がありますの。実際、強力な夢魔が金冥や端水に出ているとの情報も入っていますわ。夜霧から産まれた存在は、恨みと憎しみに満ち満ちておりますので」
「夢魔を産む夜霧は、生き物だって話だが。何からできてる?」
「そこが重要な注目部分ですの。夜霧はわたくしが考えうるに……」
「得をする」
会話を遮り、ぼそりとつぶやいたのは、うつむいたままの暁華だった。
「あたしを生かしておけば、金冥に幸を運ぶ。得をする。秀英はそう言ったよ。それってあたしが『霊胎姫』だから?」
「……こう言っちゃなんだが、お前さんは公女だ。その立場にある人間が夜霧を消してみろ。他の国は金冥を救世の存在だともてはやすだろうさ」
「いらない子だって、捨てたのに」
声が震えている。置いた拳で机を叩き、彼女は勢いよく立ち上がった。憤怒で顔を染めながら。
「そのため? そんなもののためにあたしは生かされてきたの?」
「暁華様」
「国のことなんて知らない。天乃四霊を呼ぶやり方だってわかんない。ふざけないで。四ツ国がどうなろうとあたしの知ったことじゃない!」
獣さながらの咆哮だった。怒りのままに叫んだ暁華は、もう一度強く机を殴打する。
「勝手だよ! みんな、知らないっ!」
「おい、待てっ」
「泰然様……」
脱兎のごとく駆け出し、部屋から飛び出した暁華を追おうと、泰然が立つ。押しとどめたのは凜然としたままの美玲だ。
「いいのか、ほっといて」
「すぐに受け入れられないこともあると思いますの。特に暁華様は公女でありながら虚ろ子、という立場だったのですわ。苦しい経験もしたことでしょう」
「まあ、そうだろうな。傑倫……あいつの兄貴は帝になったあと冷酷になったって聞いてる。暁華がどんな目に遭ってきたかは、想像しても怖いもんだよ」
佩芳は二人の会話に混ざることなく、ただ開け放たれた扉を見つめていた。
暁華を追いたいという気持ち。追ってどうするのかという理性。二つが胸を締め付ける。
泰然のように口が回れば、少しでも彼女の怒りや悲しみを慰めることができるのだろうか。こういうとき、どうすればいいのかわからない。慈しみの言葉を投げかけるには経験がなさすぎる。
「佩芳、暁華の側に行ってやれ」
「……まだ話の最中です」
「あんた、どうしようって顔してるぞ。悩むくらいなら動け。後悔したくないならな」
「私に一体、何ができるのでしょう」
「誰かが側にいることで、心を慰められることもございますの。食事はお部屋に運ばせますわね。話はまだ、先でも大丈夫ですから」
泰然と美玲の声は、優しい。佩芳は悩んでうつむく。白茶に自分の顔が映っていた。今まで鏡でも見たこともないような、不安と焦燥に染まったおもてが。
「……わかりました。では私はこれで」
礼をし、立ち上がる。正直、このまま話をまともに聞ける余裕はない。暁華の顔がいやでも脳裏に浮かぶ。怒りと悲しみがない交ぜになった形相。
室外へ出ると、通路に先程の女性、紅翼がいた。手に朱塗りの盆と簡易な食事を持って。
「何かありました?」
「いえ……暁華はどこへ」
「暁華さんなら走って、自室の方へ向かわれましたけど」
うなずいたのち、佩芳は自然と軽い駆け足になる。
洞窟から出て、周囲を見渡した。暁華の姿はすでになく、それでも何事かと思ったのか住人が帰り支度を止め、佩芳たちの通ってきた道を眺めている。
土の匂いを吸い込みながら、ただ走った。どんな言葉をかけようか、それにすら答えを出せぬまま。