1-1:再会すは天命か
四ツ国と呼ばれる島に我々は住んでいる。
世界地図を見たとき、中央大陸、東南大陸よりもわずか南方に位置する島国だ。だが我らの国は現在、地図上で黒く塗り潰されていることと推測する。
二百年前、『夜霧囲い』と呼ばれる現象によって、何人たりとも出入りが許されなくなった島国の伝承を知るものは、国外では酔狂な学者や高名な賢者だけだろう。
なぜこうなったのか、夜霧が発生したのか。四ツ国――金冥、炎駒、聳木、端水の国のものなら寝しなに聞かされているはずだ。
今は亡き中央の王国、土鱗の国との戦によってそうなったということを。
金冥を守る白虎、炎駒を守る朱雀、聳木を守る青龍、端水を守る玄武――すなわち天乃四霊も二百年前から姿を見せない。
夢魔と呼ばれる存在の発生。夜霧という力によって途絶えた国交。消えた天乃四霊。
謎は多いが人々はたくましく生きている。守護神を失っても、なお。そうする他ないからだ――
※ ※ ※
……そこまで巻物を読み終え、佩芳は嘆息した。
ここにも土鱗の国の詳細は載っていない。青い直領半臂と大袖の衫を揺らし、巻物を棚に戻す。竹簡や書物が棚のほとんどを占めていた。
「また行商人に頼みましょうか」
ささやき声が吐息となり、近くにあった獣脂の明かりを揺らす。
遠くから音楽が聞こえる部屋の中、そこは書物と薬草に溢れている。石造りの家は一階建てで、夜になると隙間風が入り、少し肌寒い。
それでも佩芳はここ、炎駒の国の村落――旋に文句はなかった。三年ほど滞在しているが居心地がいい。自然に恵まれたここでは、魚や果実もよく採れた。
針葉樹が並ぶイヒヤニ森林を越えた先には街道があり、金冥の国との国境が設けられている。馬で二日はかかる距離のそこには、追放された十年前から行っていない。行く理由がない。
今や医者、そして学者として邑での地位を確立させた佩芳にとって、排他的ではない旋の邑は住み心地がよかった。
だが、と近くの鏡を見る。
鋭い金の瞳に短く結った白髪。白めの肌。風貌は取り立てて変わる様子を見せない。しわ一つないおもても若々しく、二十代と未だに勘違いされる。
(このままでは怪しまれるでしょうね)
嘆息する。次の祭り前には、遠くの邑かもっと大きな中邑に移動した方がよさそうだ。寿命が尽きるそのときまで、呪痕士であることを隠したまま生きなければならない。
もう一度大きく呼気を吐き、水を汲むために桶を持って外に出た。
菩提樹の横を通り過ぎ、樫の木が並列する森を静かに歩く。光源士が灯す色は朝を示す橙になって間もない。
ついでに近くの薬草を摘んでいく。カンゾウの葉が特に艶めいていた。これは毒性を緩和し、痛みや関節の腫れによく効く。
「やあ、佩芳。いい朝だね」
「お疲れ様です、梁」
湖の畔で邑の光源士、梁と出会った。彼は膨らみのある褲に、裾を前で結んだ上衣を着ている。
胸に輝くのは銀糸で縫われた朱雀の刺繍だ。普段着でも天乃四霊の象徴をつけることは、光源士にしか許されない特権だった。
「昨夜も大変だったでしょう。おかげで夢魔は出てきていませんが」
梁は小さくうなずく。手にした刃を鞘に戻しながら。
その剣は斬るためのものではない。光の術を使う媒体なのだ。四ツ国に住むものならば誰もが必ず、一つだけ使える痕術。梁は光の術を操れる稀有な存在だった。
「当たり前さ、俺たちがいるんだから。あいつらは光を嫌う。正直体も限界だけど、女房のためにももう少し稼いでおきたい」
「ご無理はなさらず。祝金さんもまだ織り子で働いている。妊婦なのに無茶を」
「無茶な夫妻同士、息が合うってものだよ」
こけた頬で梁が笑う。茶色の瞳は疲れているように佩芳には見えた。一晩中、気を張り詰めて光を灯し続けていたのだ。当然だろう。
光源士は人の住む場所には必ず配備されている生きた道標であり、結界だ。光があるところに夢魔はなかなか入ってこれない、という説に基づいて、才あるものが国から選ばれる。生きる人柱とも呼ばれるだけあり、その負担は肉体、精神共に激しい。
「のちほど祝金さんの体調を診に行きます」
「それは助かるな。医者の君に診てもらえば女房も安心するはずだ。さて、ちょっと寝てくるか。また今度、佩芳」
風に揺れるほど痩せこけた体を引きずり、梁は広場の方へと歩いて行った。後ろ姿を見たのち、佩芳は少しだけ目をつむる。
医者として、学者として、なるべく地味に、それでも着実に自分は邑へ貢献してきた。
だがそれも、梁や他の光源士を見てしまうと無価値なような気がする。
あの様子ならば彼は間もなく、引退だ。次の光源士に選ばれるのは誰だろうか。光の痕術に長けるものはそう多くはない。
――自分を除いて。
佩芳は軽く首を横に振り、陰鬱な気持ちを追い出した。
目を開け、再び歩き出す。
青い湖で子どもたちと適当な挨拶を交わし、水を汲み、帰る途中に猟師の翻から鹿の肉を分けてもらった。塩漬けにされている鹿肉は、保存食にも向いている。
手近な赤いシュウの実をもぐ。酸味のある果実をかじり、佩芳は家に戻った。
実を食べ終え水を清潔な石窯に移す。鹿肉は冷暗所に置いておいた。少し悩んだのち、飯店の方へ行くことに決める。まだ朝だが、祝金の様子が気になった。
棚を見る。気付け薬、痛み止めの軟膏、出血を抑える飲み薬などを小瓶に入れた。
瓶を革の鞄に詰めこむ。また行商人が来るかもしれない。本を買おうと貨幣も用意した。戸締まりなどはしない。
風は冷たかった。銀糸にも見える白髪が舞う。飯店へ行ったついでに、主人に髪を梳いてもらうのもいいかもしれない。
少しばかり村の中央部と距離があるここは、橙の光が薄い。空には相変わらず暗く、暗緑色をした濃霧がかかっており、羅針盤がなければすぐに迷うだろう。目的地までの道程を覚えているなら別だが。
佩芳は慣れ親しんだ道を迷わず行き、広場に辿り着く。旋の村の名産であるシュウの酒造りは子どもや女たちの仕事だ。そこら中に、糖蜜や果実の臭いが漂っている。
円盤形をなす石畳、周囲を彩る巨大な楡の木の横に飯店はあった。中へ入ると、もっとはっきりした酒精の香りが広がってくる。
「いらっしゃい、佩芳さん。朝飯?」
出迎えてくれたのは、祝金だった。
「ええ。体は冷えていませんか」
佩芳は笑みも浮かべぬまま、彼女の様子をうかがう。少しふくよかな体を包むのは、袖がある筒状の衣だ。腹部は膨らんでいる。普通なら帯や紐を結んで締め付けて体の線を出すのだが、使っていないようで安堵した。
「やだねえ、旦那に頼まれたのかい? あの人も心配性なんだから」
「何かあったあとでは遅いので」
「あはは、大丈夫。織り子として働いてるだけさ。冷暗所にも行かせちゃくれないのさ、親父さんは」
親父さん、と呼ばれた飯店の主人がこちらを見る。佩芳は軽く頭を下げた。筋骨たくましい主人は腕を組み、うなずくことしかしない。仏頂面なのもいつものことだ。
「座っておくれよ、何か食べていきな」
「では、シュウ酒を一杯。木の実も少し」
「あいよ。親父さん、酒と木の実ね」
佩芳は入口近くの席に腰を落とし、飯店の中を見渡す。奥の席では、他国に向かうと思しき旅人たちが料理を楽しんでいた。
佩芳が軽く見たところ、旅人たちは雑技団のようだった。
鼻歌を歌う女の姿はなまめかしく、がむしゃらに肉を食らっているのは、未だ背丈の小さい若人。その他、剣を持つ老年の男や護符を確認している青年なども集団にはいる。
家で聞こえてきたのは彼らの歌や音楽なのだろう、と推測し、行商人がいないか確かめる。まだ商人の姿は酒場にない。
祝金が木の杯と椀に盛り付けられた木の実を運んできた、そのときだ。
「佩芳、佩芳はいるか!」
戸を開け放ち、翻が飛び込んでくる。
肩で息をしつつ、驚きで目を見開いた佩芳を見つけると、彼はようやく長い呼気を吐き出した。
佩芳は静かに彼の元へ寄る。
「どうしました、翻」
「森の入口に女が倒れてる。馬も潰れてて。怪我をしているのかもしれん」
「……わかりました、すぐ行きましょう」
森の入口と言えば金冥の国側の方向だ。少し逡巡したのち、それでも首肯してみせた。邑に医師は、自分しかいないのだから。
「気をつけてお行きね、二人とも」
祝金と主人たちに見送られ、翻と共に駆け出した。獣皮で作られている靴は石畳に滑ることもない。
翻はすでに、邑のもの数名へ声をかけていたのだろう。森には三人ほどの男女がいた。
口から泡を吹いている馬が、近くの木に衝突したまま倒れている。投げ出された娘はうつ伏せになり、ぴくりともしない。
「どいて下さい」
佩芳は娘の容態を確かめるため、村人たちに割って入る。ざわめく彼らを無視し、娘の側へとしゃがみこんだ。娘は微動だにしないが、息はあるようだった。
黒髪は長い。髻から左右にかけて編まれた三つ編み、残った部分が地面に垂れている。
その髪型に刹那、十年前を思い出した。数ヶ月の間、言葉を交わした少女のことを。
思い出にも満たないはずの記憶を振り払い、娘の脈を確かめた。少し早い。落馬したなら骨折や頭を打っている可能性もあった。村人たちへ視線をやる。
「どなたか、私の家まで彼女を運んで下さい。なるべく頭を動かさずに」
「う……」
娘が小さく呻き、地面についた顔を上げた。
「まだ起きては」
言いかけて佩芳は絶句する。
そのおもて、軽く開かれた白い瞳に滑らかそうな頬。形のよい鼻梁。それら、全て――
「……なぜ、ここに?」
思わず漏らした言葉。続けた『暁華』という名前だけが風に溶け消えていく。