3-3:欠けて、憂愁
……一体どの程度眠っていたのだろうか。扉を数回叩く音がして、佩芳は目覚めた。
「起きてるかな、旅人さん。美玲様が呼んでいるよ」
見知らぬ男性の声だ。体を起こし、扉に向かって返答する。
「今、目覚めました」
「そうかい。着替えを二階に置いといたよ。ゆっくりでいいから準備を整えてくれるかな。体を拭く場所はわかるかい?」
「ええ」
「じゃああとでまた、呼びに来るよ」
足音が遠ざかっていくことを確認し、牀褥から立ち上がる。靴をはき直し、近くの鏡で自分の顔色を確認してみた。
睡眠をたっぷりとれたおかげで、血色はいい。空腹も覚えている。続いて露台の方にも出てみた。
光源師はいないのか、代わりに松明の光が弱くなっている。夕方を示しているのだろう。
隣の部屋――暁華のいる部屋でどたばたと騒がしい音がするが、何かあったのか。
思い当たる節はなく、ともかくも、と支度をはじめる。扉を開けて二階に降りると、私物の横の棚に簡素な衣が用意されていた。
衣と布きれを手に持ち、一階から外に出る。すると丁度、不機嫌な顔の泰然と出会した。
「泰然、少しは休めましたか」
「……ああ。あんたも顔色、よくなったみたいだな」
「それならいいのですが」
「人を気遣うなんて、どうした。珍しい」
目をすがめてくる泰然の言葉に、多少棘があるような気がして、黙る。それを見てだろう、泰然は肩をすくめてみせた。
「ま、いいさ。今から体を拭きに行くんだろ? 暁華は?」
「起きたあとはまだ見かけていませんが、部屋の方が少々騒がしかったですね。何があったのやら」
「ここじゃきっと盗っ人も出ないだろ。オレたちはともかく、美玲へ会いに行く準備でもしようや」
佩芳はうなずき、泰然と共に井戸の方へと足を運んだ。途中辺りを見渡すも、人の気配はない。全員、広場の方にいるのだろうか。
到着した場所にある井戸は掘り抜きで、水がなみなみとあった。水脈が近いのかと思い、中を興味本位で覗いてみる。透明な水の底には、一つの大きな鉱石が輝いていた。
「なんだありゃ?」
「水呼鉱、でしょうね」
「水呼鉱? なんか意味ある石か」
「土鱗の国から持ち出された、とされる道具の一つです。無限に清らかな水をわかせるとか。私も現物を見るのははじめてですが」
「詳しいな、佩芳」
服を脱ぎつつ、泰然は感心した声を上げた。筋肉が程よくついた体には無数の傷がある。
「それも学者として知ったことか?」
「いえ……母が土鱗の国の人間でしたので。おとぎ話の代わりに聞かされていたと言いますか」
語尾を濁しつつ、佩芳は近くにあった桶で水をすくう。減った水かさはすぐに元へ戻った。
桶に布をつけ、体を浄めはじめた泰然が難しい顔を作る。
「よく今まで無事に生きてこられたもんだ。ずっと呪痕士のことを隠して、国々を回ってたのか? 暁華と知り合ったのも金冥でか」
「……そうですね」
そろそろ泰然にも、自分のことを話してもいいだろう。佩芳は思案ののち、体を拭きつつ今までの生い立ちを語る。
金冥で産まれ、隔離されていたこと。暁華と知り合い、その後追放されたことなどを、簡潔に。
「大変だったんだな」
ぽつりとつぶやかれ、首を横に振る。
「それは私に言う言葉でしょうか」
「どういう意味だ?」
「本当は、美玲にそれを言いたかったのでは?」
一瞬、空気が張り詰めた。すぐに泰然の溜息で緊張も解かれたが。
「なんでそう思う」
「あなたと美玲が知り合い同士だ、ということはもうわかっていますから。危険を冒してまで彼女を探していたのなら、何か伝えたいことがあったはず」
「いやなところを突くな、あんたは」
背を向け、下衣を脱ぎはじめた泰然の声に張りはない。同じく背中合わせになり、佩芳も下腹部を拭うため褲を降ろした。
「オレと美玲は幼なじみだった」
少しの間を置き、泰然が話しはじめる。
「あいつが教師でな、オレの。オレが七歳のときだ。美玲は十歳。数年、色々教わったさ。あいつのことが好きで、将来結婚しようって言ってたもんだ、いつも」
「彼女は、なんと?」
「何も。ただ笑うだけだった。忽然と姿を消して、それきり。オレは剣技会で優勝して、一年の猶予をもらって旅に出たんだ。なんで消えたのか、オレから逃げたのか聞くために」
小声で話す泰然に、佩芳は何も言えなかった。ただ、推測できることならばある。
美玲はそのとき、泰然と出会ったときからすでに天啓を得ていたのではないか。
夜霧の思念を読む、ということが天啓だと仔静は言った。だとするなら、彼を巻きこまないために美玲は泰然の元から去ったのではないかと。
「あいつは変わった。人をはべらせるような……他人の命を犠牲に生きていくような女じゃなかったんだがな」
「そうしてでも、成さねばならない事柄があったのかもしれません。あなたを巻きこみたくなかったとも考えられます」
「だとするなら美玲はオレを甘く見てる。オレはそんなに頼りないか、佩芳」
「いいえ。あなたには何度も救われた」
着替えを終えた佩芳は本音を漏らす。泰然がいなければ、暁華と二人でここまで旅をすることはできなかっただろう。緩和剤のような役割に、いつも彼はなってくれていた。
自分と同じく、ゆったりとした黒い袍と膨らみのある白の褲を着た泰然が、こちらを見て片方の唇を釣り上げる。
「あんたらはどうなんだ?」
「どう、とは?」
「暁華のこと、まだやかましいだけだと思ってるのかってさ。邸店じゃ随分仲よさげに話してただろ」
「立ち聞きしていたのですか」
「いや。いい雰囲気だったから、小便してすぐ寝た」
「……昔の話などをしていただけです。それだけのことですよ」
いい雰囲気、と言われて思わず苦笑が浮かんだ。泰然がなぜか大袈裟に肩を落とす。
「暁華も大変だな、こりゃ」
「彼女が大変なのですか?」
なぜだろう、と佩芳は思い、首を傾げた。大きい泰然の手が肩を無遠慮に叩く。
「いつかはわかる。多分」
「はあ」
曖昧な返事をし、残った水を水路と思しき場所へ捨てた。今まで着ていた服を手に、二人で元いた部屋へ戻ろうと小道を進んでいたとき、多少小太りの男が手を振っているのがわかる。
「旅人さん、準備はできたかい。美玲様の元に案内するよ」
「ちょっと待ってくれ、服を部屋に置いておきたい」
「二階に置いといていいよ。あとで洗濯するから」
「わかりました」
男は向かって右側の通路で、自分たちを待っている。横にいる泰然が小さな笑いを漏らした。
「至れり尽くせり、だな」
「厚意は受け取っておきましょう」
言って、各々もう一度部屋に入る。男が言ってくれたとおり、汚れや汗で臭いがする服は棚へ畳んで置いた。
外に出ると、男は人好きのする笑みを浮かべ、佩芳と出てきた泰然を手招いている。
だがそこに暁華の姿はない。不審に思い、辺りを見渡してしまう。部屋からはなんの物音もしなかった。
「どうした、佩芳」
「……いえ」
「ああ、もう一人のお嬢さんはね、先に行ってるから。さ、ついてきてくれ」
「ん」
うなずいた泰然より、一歩遅れて佩芳も歩き出す。
いつも隣ではしゃぐ暁華の声が聞こえないことが、なぜかとても落ち着かなくてたまらなかった。




