3-2:束の間の休息
彼女、美玲は梅の刺繍が施された白い裳を引きずりながら、静かにこちらへと近付いてくる。
「暁華様、佩芳様、そして泰然様。不躾な呼び立てをお許し下さいね。最近どうにも夢魔が多く、このような手段しかありませんでしたの」
「そんなのはどうでもいい」
唾を吐く勢いで言い放ったのは、泰然だ。彼は苦々しいおもてで一歩を踏み出し、近寄る美玲を見下ろした。
「お前さん、仔静を見殺しにしたな」
「……彼は立派でした。少なくともこのわたくしより、遙かに」
「だろうな。逃げ隠れして真実を話さないお前さんたちよか、あいつはよっぽど勇敢だ」
「ちょ、ちょっと泰然。それは言い過ぎ……」
「何が言い過ぎ、だ。ここに連れてきてやれば仔静は死なずに済んだはずだろ」
暁華のとりなしを鼻で笑う泰然の様子に、佩芳は悟る。
彼がここ最近不機嫌だったのは、美玲に対して――いや、きっと全ての賢人に対して怒りを覚えていたからなのだろうと。
だが、美玲は凜然とした面持ちで首を振る。
「それはできませんでしたの。彼には彼の、そしてわたくしにはわたくしの役割があります」
「人の命を軽んじる役目でも背負ったか」
一瞬、美玲の青い瞳が揺らいだのを佩芳は見た。しかしすぐに、彼女は強気な様で眉を釣り上げる。
「言いたいことはそれだけですの?」
「……変わったな、美玲」
どこか、諦観の念をこめて泰然は溜息をつく。それに答えず、美玲が再び微笑んだ。
「暁華様、佩芳様。お疲れでしょう。ここで旅の疲れを癒やして下さいませ」
「ま、待って。美玲……あたし、あなたを探しにきたの。それに」
「『霊胎姫』、のことですわね」
柔らかい声音に、暁華はうなずいた。
「それや夜霧のこと、話したいことはたくさんございます。ですがまずはお休みになって。疲れていては頭も回らないはずですの」
「でも……」
「時間はございます、大丈夫。恩、皆々様を部屋に案内してあげて下さいまし」
「わかりました、美玲様」
むすっとした顔の少年が、男女の列から飛び出してくる。恩とは彼の名なのだろう。
「馬はこっちで預かる。食ったりはしない。さ、おれについてきて」
「う、うん」
「……行きましょう、泰然」
佩芳は、目を閉じていた泰然を呼ぶ。わざとらしく嘆息した彼は、それ以上美玲に何かを言うでもなく、まぶたを開けて歩きはじめた。
残った男女たちは美玲の側に赴き、何かを話し合っているようだが内容までは聞こえない。
石が敷き詰められた広い通路を、恩を先頭にして進む。
「ここ、地下なのに凄い綺麗なところだね」
周囲を見渡す暁華に釣られ、佩芳も同じく辺りを確認してみた。
天井は瓦ではなく、蛇にも似た形をした石の列でできている。そこら中に獣脂の松明があり、石がその光を下に反射させていた。
回りの建物は円楼作りだ。窓がない代わりに、はみ出した露台には洗濯物などが干されている。先程まで自分たちがいたところは中庭のような場所だと感じた。基本、建物の中枢に作られる祠堂が視線の先にはある。
「あそこで天乃四霊を奉っているのですか」
「知らない。子どもは入れないんだ」
恩はそっけない。確かに見た目は十歳程度か、もしくはそれを少し過ぎた頃だろうか。十五で成人とする四ツ国だ。この砂漠宮でもそこは変わらないらしい。
「あなたはここで産まれたの?」
「……端水で。夢魔に母ちゃんと父ちゃんが殺されて、美玲様が助けてくれた。ここに住むみんなはそういう感じ。百人はいる」
ちらりと、恩がこちらを振り返った。視線は黙ったままの泰然に注がれている。
「なんだ」
「お前、美玲様のこと知らないのにあんなひどいこと言ったな。嫌いだ」
「知らないがきに好かれたくないね。それにオレは本当のことを言ったまでだ」
「泰然」
佩芳は止めた。泰然も恩もまた、黙る。
泰然は美玲を探している、と言った。理由は定かではないが。彼女に恨みでもあったのか、それとも何か別のものがあるのか、そこまではわからない。
ただ、「変わったな」という言葉から、彼が美玲と既知の中であることは理解できる。
(ともかく今は体を休めたい)
思考を一旦放棄する。
気を探ったときの疲労感、今まで累積されていた疲れがどっと押し寄せてきていた。天井からまんべんなく反射している光を見る限り、そしてここが地下である限り、夢魔に襲われる心配はないだろう。
「ここだ、部屋。三階が寝る場所」
一刻程度で空き部屋と思しき場所につく。扉はどこから調達したのか、木でできていた。
「厠は井戸の近く。さっき通ったとこ。体を拭きたいなら井戸で。中に布もあるから。食事は他の人が知らせに来ると思う」
「わかった。ありがとうね」
「美玲様の言いつけだから」
少しだけ照れたように言って、恩は今来た道を駆け足で戻っていった。
「オレは右側の部屋を借りる」
言うが早いか、泰然はさっさと部屋の中へ入ってしまう。残された佩芳は、暗い面持ちの暁華を見た。
「私は泰然の隣を借ります」
「……うん。泰然、大丈夫かな? すっごく怒ってたし、あんな顔見たことないし」
「疲れや空腹もあるのでしょう。あなたも無理をしないで早めに休みなさい」
「そうするね。寝られるかわからないけど」
苦笑を浮かべ、暁華もあてがわれた部屋へ入っていく。佩芳は大きく呼気を吐いたのち、全身の気怠さを振り切って歩いた。
一階には食堂と思われる石造りの椅子や机があった。二階は倉庫のような場所だ。手にしていた私物を適当に置き、三階へと進む。
簡素な牀褥と薄い毛氈が部屋の隅にあった。あとは鏡と棚。棚の上には体を拭くための大きな布きれが畳まれて置かれている。
靴を脱ぎ、牀褥へ倒れ込む。砂漠とは異なり、冷気はない。少し暖かいくらいだ。
天井を仰ぎ、額に手をやった。まぶたを閉じずとも、まどろみが少しずつ全身を包んでくる。
(三人の旅もここで終わるか)
ふと、思う。
泰然と美玲の関係。『霊胎姫』と夜霧の謎。知りたいことはたくさんあった。それでも精神的な重圧と肉体の疲労が、考えることを許してはくれない。
まぶたが重い。土の匂いと静かな空間に、自然と目を閉じる。
気付かぬ間に眠りについた。夢すら見ないほどに。思考を停止させたままで。