3-1:賢人の美玲
古来、砂漠は昼は暑く、夜は寒いとされていた。だが陽のない現在――夜霧が空を制する今では昼夜問わず冷気が漂い、旅人の体力を蝕む。
しかも高台も光源士も存在しないため、時間がわからない。周囲は一面、岩の谷に砂。感覚も狂うばかりでなく、精神的な疲弊も大きかった。
仔静に言われ、シゴウ砂漠に入って何日が経過しただろうか。体感では三日ほどだ、と佩芳は焚き火を見つめながら思う。
火の元になっている枯れ木は、砂漠を歩いている途中に調達できた。だが問題は光源ではない。水や塩、干し肉など最低限の食品が底をつきはじめているのだ。
「美玲、いないね」
横にいる暁華が、沈黙に耐えかねたようにつぶやく。対して泰然はここ最近、苛ついているような雰囲気をまとい、口数も少ない。
無言で青竜刀の手入れをしている泰然を見つつ、佩芳は空を確認した。強いかがり火によって夢魔が現れる様子はないが、運がいいとしか言えないだろう。
二人に視線を戻し、小さく頭を振った。
「これ以上は命の危険もありえます。一度、砂漠を突っ切り邑へ走る方がいい」
「この先に邑はないはずだ。山の麓に出る。迂回して王邑に行くには食料が足りない」
泰然の声は硬く、冷ややかだ。暁華は膝に載せていた顔を上げ、彼の方を不安げに見つめる。
「泰然、なんか変だよ。どうしたの?」
「別に」
「でも……」
「それよかこの状況を打破するのが先だろ。干の中邑に戻っても、もしかすれば騒ぎの元凶としてお尋ね者になってるかもしれないしな。だとしたら前進あるのみだ」
「……せめて目印でもあればいいのですが」
貴重な塩の欠片を舐め、佩芳は思案する。
美玲は女性だ。例え賢人とはいえ、たった一人で危険な砂漠に行くはずがない。仲間か弟子が付き従っていると考えるのが妥当だろう。
だが、誰かが野営した痕跡は今のところ見つかっていなかった。風に飛ばされ、砂に埋もれてしまったのかもしれない。足跡もなく、完全に迷子の状態だ。
「そもそも、ただ砂漠に行け、っていうのもおかしな話だよな。ここで暮らしているわけじゃあるまいし」
「暮らす……」
うんざりと赤毛を掻く泰然の言葉に、昔のことを思い出す。母である藍洙との会話を。
土鱗の国には地下――それこそ砂地の下にもう一つ宮があったらしい。土の気を変え、自在に操ることのできる水晶により作られた王宮が。それもまた、四ツ国との戦いの中で失われたと聞いている。
「……砂漠宮」
「えっ?」
「土鱗の国には砂漠の宮があった、と聞き及んでいます。万が一、美玲が土鱗の国の技術を手にしていたならば、このシゴウ砂漠に住んでいてもおかしくはない」
一人うなずき、小物袋から羅針盤を取り出す。立ち上がって目をつむった。不可解な気配を探るために。
集中する。かがり火の爆ぜる音も、風がうなる音も耳から少しずつ消えていく。無我となり、流沙の感覚に身を委ねたそのときだ。
(土の気が異様に強い)
砂がとぐろを巻いているかのような気配を察知する。底には水の気までもが感じ取れた。
目を開け、羅針盤を見た。ここより北西の位置にそれらはある。
こちらを見ていた暁華たちを振り返り、首肯した。
「北西側に異常な気配があります。遠くない」
「呪痕士ってのはそういうこともわかるのか」
「そんなの関係なくて、佩芳が凄いんだよ、泰然」
なぜか自分の手柄のように胸を張る暁華に、苦笑が浮かぶ。
「幸い、今は夢魔が出ていません。照明を作り、移動することにしましょう」
「……そうだな。じゃあ早いとこ、その砂漠宮とやらに向かうとするか」
「うんっ」
立ち上がったあと、二人の行動は素早い。馬に軽くなった荷物を括り、三人用の竹の明かりを布と手持ちの油で作り上げる。
「はい、佩芳。火傷しないようにしてね」
「ええ」
片手に照明、もう片方に羅針盤を持ち、それぞれの準備ができるまで待った。
「ここの火は消さないでおくぞ。少しでも明かりはあった方がいいからな」
「私が先導します。ついてきて下さい」
暁華と泰然がうなずく。
掴み取った異様な感覚は、未だ佩芳の体に流れこんできていた。歩いても大体、三刻くらいでつくだろう。先程まで体を休めていてよかった。
黄色と茶色、まだらになっている岩の渓谷を慎重に進む。先程までと違い、照明は少し心許ない。流沙に足をとられれば厄介だ。
後ろの二人を確認し、無言で先へと進む。土と水が混じり合う奇妙な感覚は、確実に近付いていた。
ふと聞こえた鳴き声に顔を上げれば、天の夜霧に隠れるようにして、暁明鳥が群れをなして飛んでいるのが見える。やけに姿が多い。ここいらでは木も生えず、水もないというのに。
「暁明鳥……たくさんいるね」
不気味に思ったのか、暁華がつぶやく。確かに鳥の住処にしては不思議だが、暁明鳥の生態を知らない身としては何も言えない。
ここから見える暁明鳥は、太めの金糸のようだ。一列に並んで旋回する姿は美しい。
見とれている場合ではない、と思い直し、佩芳は気を探ることに集中する。渓谷の奥、少しすぼまったところの土の気がひどく、全身にのしかかってくるようだ。
「あの狭いところがそうですね」
「でも、建物なんてないよ?」
「入口も見当たらないな」
二人の言葉に、周辺を照明で照らしてみた。
気配は確かにそこからする。だが、他の砂地となんら変わりがない。建築物どころかそれらしい出入り場所も見当たらず、近くに行って確認しようと思ったのだが――
途端、地震がした。ひどく大きい地震で体が揺れ動く。
「きゃっ……」
「な、なんだ?」
砂が動いた。すり鉢状に渦を巻き、砂地全体が荒れ狂うようにして各々の足をとる。
普通一般の流沙ではない。地鳴りがするつど、砂は全身を絡めとる勢いでこちらへと襲いかかってくる。
「口と目を閉じて下さい!」
佩芳の咄嗟の叫びに、暁華と泰然が目をつむり、口元を押さえた。だがそのときにはもう、体の半分以上が砂地の下へと押しこまれてしまっている。
「佩芳……っ」
顔だけ残った暁華が、苦しげに名を呼んだ。小柄な彼女の元に行こうとしても、突然の流砂は重く、身動ぎもできない。
佩芳もまた、名を呼ぶ前に砂地へと引きずり込まれた。
暁明鳥の鳴き声、それすらも消えた瞬間。
「五行相乗たるは木乗土。満ち足りて萌えよ、しなやかに」
凜とした娘の声が、響いた。途端、何かに足を引っ張られる。栓を抜くように砂地から抜け出した。苦しかったのも一瞬だ。
何が起きたのかと思い、瞬時に辺りを見渡す。
浮いていた。自分ももちろんだが、暁華も泰然も、そして馬も、緑豊かな大樹の梢に乗っかっていたのだ。足に絡んでいたのは木の蔓。
佩芳は思わず天を見上げた。円形の天井は早々と左右から閉じられていく。中央の隙間から多少の塵が落ちたが、先程体験した砂の動きは完全に封じられていた。
「これは……」
「無礼を失礼しますわね、皆々様」
下からまた声がする。と、共に蔓がうごめき、体を捕らえて地面の方へ運びはじめた。横を見れば、暁華も泰然も同じようにされている。
それぞれの足が地につくと、蔓は役目を終えたとばかりに大樹の幹へ戻っていった。
「ここが……砂漠宮なの?」
「だと思いますが」
巨大な広場と思しき場所には数十名の男女がおり、佩芳たちを囲んでいる。手には武器を持つも、敵意や悪意は感じられない。
「皆々様、ようこそおいで下さいました」
男女が頭を下げ、波を割るように道を作った。その先にいたのは一人の女性だ。
台座に載った水晶に手をかざし、こちらを見て微笑む娘。黒い髻に大きな青の瞳が特徴の彼女こそ、間違いない。
「……美玲」
泰然のつぶやきに、娘、美玲はどこか悲しげに口角を釣り上げた。