2-11:死にゆくものの蛮勇
砂漠の方向から地鳴りが聞こえる。同時に奇妙な啼き声がした。動物のものではなく、銅を擦り合わせたような耳障りな声が。
佩芳は天を見た。光源士たちが作った橙の光、それよりも上に鎮座する夜霧がうごめいている。特に南の方角のものが顕著だ。
「夢魔は光に弱い、というのも嘘ですか」
「いや、本当。かなり弱体化されるはずだよ」
仔静の言葉にうなずき、地形を確認した。ここから中邑の中央まではかなり距離がある。周辺は岩壁と砂地で、木はほとんど育っていない。ならば、使える痕術は――とそこまで思案していたときだ。
「来たぞ!」
侠客の数人が声を上げた。
岩陰の向こうから響いた地鳴りは、夢魔となって姿を現す。巨大な虎の体と男性の顔、コウモリの翼を六つつけた存在として。
黄色の目には明確な殺意があった。夢魔は唸り、鋭い爪がある手で地面を掻いている。
「暁華、お前さんは馬に荷物を積んでくれ。砂漠に行く準備をしといて損はない」
「……わかった。佩芳、泰然、怪我しないでね」
「そりゃお相手次第ってとこだな」
密やかな会話を終えた暁華が、一歩、後ずさったその瞬間だった。
「弓隊、放て!」
夢魔の咆哮が空気を震わせると共に、隊列を作った侠客の数人が負けじと矢を放つ。しかし夢魔は、体に刺さったやじりに目もくれず、こちらへと突進してきた。
一歩が速い。弧を描くように跳んだ夢魔は、弓を構えていた集団を爪で薙ぐ。血飛沫と絶叫。膂力も強いのだろう、一度に五人がやられた。吹き飛ばされた五名は身動ぎもしない。
「五行相剋こそは火剋金。なれど我が刀剣は金に非ず。五行相生は火生土!」
痕術を発動させ、泰然が青竜刀に炎を生み出す。駆け出した。泰然に続くように、そこここで痕術の詠唱が上がる。
近寄る面々を見てか、ひゅっ、と夢魔が空気を吸う。次に口から放たれたのは、水だ。水鉄砲のように噴き出された飛沫は大量で、勢いに押し倒される男たちの姿が痛ましい。
佩芳は暁華が馬をなだめつつ、食材を仔静の家から運んでいるのを確認したのち周囲の気を探る。
(全体は土。夢魔は水)
相剋、すなわち滅ぼす関係ならば周りにある土を使うのがいい。そう考え、体にある全ての痕を眠りから起こした。
痕がまたたく手を振り上げ、脳裏で土の竜を思い描く。岩のような肌と牙を持つ、屈強な竜を。
「土よ、姿を成して敵を滅ぼせ」
砂地と岩が大きな音を立てて複雑に絡み合い、一つの形となる。無骨で巨大な竜に。
竜が体をくねらせて夢魔と男たちの間に滑り込む。再びうなった夢魔が、今度は竜へと掴みかかった。
(光で弱体化されても、これか)
竜の岩肌を鋭い爪で剥がされるつど、痛みが直接心身を襲う。脂汗がにじみ出る。だが、ここで術を解くわけにはいかない。
泰然を中心とし、近接距離の武具を持った面々が連携して足を切りにかかる。それでも鋼の体毛に苦戦しているようだ。
「僕たちが隙を作る。その間に家の裏側から砂漠へ」
戦いの行方を見つめていた仔静が、一歩前に出た。
「……ですが」
「目的を見誤るなよ、呪痕士。ここで戦いを続けても体力を消耗するだけだ。砂漠は寒い。疲労する前に美玲様へ会いに行け」
確かに仔静の言うことは、正しい。
だが、ここで彼の死を、天命をそのまま受け止めてもいいものか、佩芳は迷う。くつがえらないものだとわかっていても、心で納得できないことがある。
それでも仔静は佩芳の内心を無視するように、冷たい声音で続けた。
「あの竜を土石流に変えろ。好機は一瞬だ。見逃すなよ」
仔静が走り出す。死に向かって。決して変えられないさだめを受け入れるように。
「夢魔よ、お前の狙いは僕だろう!」
怒号に、夢魔の黄色い瞳がこちらを見た。獲物を視認したそれは、にたりと笑う。これ以上なく醜悪に。悪意を持って。
「呪痕士!」
「解け、流れよ!」
地面に着地した夢魔を囲うように竜を動かし、上から被せるがごとく一気に土くれに戻す。凄まじい砂煙が立ちのぼり、夢魔の体がはじめて揺らいだ。
「こちらへ、泰然っ!」
「くそっ」
宙に跳んだ泰然を呼び、佩芳は仔静の家へと向かって走る。馬はよほどの豪胆なのか、逃げ出す素振りも見せずに暁華の側に立っていた。
暁華が心配そうな面持ちで手招く。
「佩芳、泰然っ。準備できたよ!」
「走りなさい、砂漠へ」
「仔静は!?」
「彼の意を迎えましょう。命を賭しての心を」
暁華が唇を噛みしめた、直後だ。
再び咆哮が空気を裂いた。それでも振り返らない、振り返ってはならないと佩芳は思う。転がるようにして駆け寄ってきた泰然に対し、首を横に振った。
「……今のうちってわけだな」
「でも、でも!」
「失礼」
涙声で叫ぶ暁華の手を掴んで、走り出す。泰然が馬の手綱を握り、後ろに続く。
家の周囲を回り、裏側から砂漠の入口へとがむしゃらに走った。
悲鳴、怒号、地響き――その中で、侠客が仔静の名を呼ぶ声が聞こえた。
佩芳はつい、横目で乱戦の中を見る。だめだと頭では理解しているのに、心は追いついてくれなかった。
視線の先には巨大な爪に腹部を貫かれ、痙攣しながら血反吐を吐く仔静の姿があった。遠目でもわかるほどにどこか穏やかな、充足感に満ちた死に顔。
すぐに視線を戻し、歯を食いしばって岩壁を曲がる。
空は赤。危険を知らせる色となり、しかしそれも走る間に遠ざかってゆく。
胸を穿つどうしようもない感覚は、医者として患者を看取った際にも似ていた。
だが、今回のはそれよりひどい。今まで感じていた感傷などちっぽけだと思えるほどに、仔静の死は無力感を植え付けた。
これがもし暁華なら。泰然なら。
そう感じてしまうのは、考えるのは自分が弱いからなのだろうか。
無言でただ、走る。
しばらくして暁華のすすり泣きが聞こえた。彼女も仔静の死に様を見たからかもしれない。
砂漠に入り、なんの音もしなくなる。高台はなく、夜霧の暗闇だけが空を覆っていた。まるで各々の思いを体現しているかのように、重く。




