2-10:絶望の一端は
仔静と名乗った青年に連れられ、佩芳たちは小屋の集まる集落、砂漠に一番近い場所に建てられた家へと案内された。正確に言えば「ついてこい」と一人で先に行ってしまうものだから、慌てて追いかけただけなのだが。
家の中は広くもなく、整頓もされていなかった。そこら中に竹簡や巻物、書物の類いが散乱している。腰かけ程度の大きさの牀褥には毛氈がかけられていたが、ところどころにかびが生えていた。
「凄いとこ……」
「食料は外に出しておけ。仲間が食う」
立ち尽くす佩芳たちへ偉そうに命令しつつ、仔静はこともなげに牀褥へと座る。
「あんたは食べないのか?」
「酒少しでいい。包子があるならそれで」
泰然に目配せされた暁華が、包子を包んでいた布を机に置いた。泰然も同じく酒壺を下ろす。
佩芳は一度外に出て、木製の長椅子へと荷物を放置した。鳥に食われないか心配だが、言われたとおりにするのが賢明だろう。ついでに、馬に積んでいた酒壺も全て下に置いた。
どこからか人の気配がする。多分、侠客たちだ。だが彼らの姿は見えない。こちらを見張っているのか、それとも食事を狙っているのか、もしくは両方か。
ともかく今は仔静に話を聞くのが先だ。そう思い、家へ戻った。
目に飛び込んできたのは、包子をがっつく仔静の姿だ。礼儀も作法もあったものではない。よほど腹が空いていたのか、肉や野菜を口の周りにつけ、一心不乱に食べ続けている。
「食べ方も凄いね……」
暁華が唖然としていた。泰然も同様だ。
佩芳が扉を閉じると、仔静は壺を両手で持って、酒を勢いよく飲み干す。狭い室内に酒精の香りが充満した。
「あの、そろそろ話を聞いてほしいんだけど」
「うるさい。僕は最後の食事を楽しんでるんだ。それに時間はまだ少しある」
「最後だって? そりゃどういう意味だ」
泰然の問いに、しかし仔静は答えず、数十個あった包子を全て平らげてしまった。
酒の一滴までもを飲み尽くし、ようやく食事を終えた仔静が片足を組んだ。
「名前」
「え?」
「自分の名前だよ。順に名乗れ」
「……泰然」
「ぎょ、暁華」
「佩芳です」
名乗った佩芳たちを彼はねめつける。
「それぞれ炎駒の次期帝候補、金冥の公女にして虚ろ子、土鱗の呪痕士で間違いないな」
「えっ? ほ、泰然?」
「いや、お前さん、虚ろ子って……」
うろたえたのは暁華と泰然だ。当然、佩芳にも少しは驚きがあった。
「泰然、あなたが帝候補、ですか」
「いや……その、な」
「なんだ、君たちは自分の素性を隠していたのか」
悪びれた様子もない仔静に、泰然は諦めたかのような溜息をついた。
「別に言う必要はないだろうよ。って暁華、お前さん、どうりで痕術使うそぶりがなかったんだな」
「泰然こそ。次の帝候補なんてびっくりした……佩芳は知ってたの?」
「いいえ。今はじめて聞きました。剣技会で優勝したものが次の帝に、という炎駒の国のしきたりは知っていましたが」
「オレはそれよか、虚ろ子が今も生きてる謎を聞きたいね」
「それはちょっと……理由が」
「そこまでにしてくれないか。時間が惜しい」
手を叩き、注目を自分の方に向ける仔静はうんざりとした顔を作っている。
「さっきから時間、って言ってるけど。どうして?」
「僕は今日、死ぬからだよ」
「死ぬ……」
淡々と述べられた事実に、佩芳は理解が追いつかない。泰然も暁華も同じのようだ。それすら意に介さず、仔静は頬杖をつく。
「とっとと本題に入ろうか。君たち、天啓とはどういうものだと思う?」
「……その名のごとく。天の真理を得ること、でしょうか」
「半分正解、半分は間違いだね。四ツ国での今の時代の天啓は、夜霧の思念を読み取る意味合いがある」
「夜霧の思念って?」
「夜霧は生き物だ。少なくとも賢人の美玲様はそう悟った。ま、多分天啓を得た賢人の大半は理解してるんじゃないかな。僕を含めてね」
「賢人たちはどうして、その事実を告げないんだ?」
「夢魔に殺されるから」
あっさりと述べる仔静に、三人で顔を見合わせる。
佩芳を含め、他二人も困惑気味だ。当然とも言えるだろう。謎に包まれていた夜霧、その正体が生物だとは誰もが思うはずがない。
疑問を顔に浮かべるこちらを、やはり仔静は無視して続ける。
「夢魔は夜霧の手先さ。夜霧には執念や怨嗟しかない。そんな存在がどうやって夢魔を産み出しているかはわからずじまいだけどね、僕には。ただ」
「ただ?」
固唾をのむ佩芳の問いに、彼は人差し指を一本、上げた。
「美玲様なら全てをご存じだろう。金冥の公女、君の捜し物たる『霊胎姫』も含めてね」
指された暁華は目をまたたかせる。
「あなたは『霊胎姫』のことを知らないの?」
「そこまでを読むことはできなかった」
「人により、天啓が降りる差がある……と考えてもよろしいでしょうか」
「正直に言うね、呪痕士。そのとおり。僕は夜霧の正体、美玲様を探す君たち三人の姿と名前、そして自分の死期しか読み取れなかったわけだ」
「お前さん、死ぬって言ってるわりにやけに達観しすぎじゃないか?」
泰然が首を傾げれば、彼はいささか不機嫌なおもてを作ってみせた。
「自分の死期や死に様を唐突に、一般人の前で天啓にて降ろされた人間に残るものは、一体なんだと思う」
「わからん」
「絶望だよ。そして、周囲の不理解」
はじめて、仔静が翳りを顔に帯びさせる。だがそこにあるのは、絶望と呼ぶより失意に近いものがある、と佩芳は思った。
「美玲様と出会って、私塾に入って。学者になろうとした矢先に自分の死が浮かんだ」
耳を掻き、ふけを飛ばしながら仔静は言う。他人事のように、淡々とした口調で。
「泣きわめいた僕を、他人は狂ったと考えた。でもさ、痛覚まではっきりしてるんだ。何度死んだかわからない。憔悴した僕を親も師も見捨てた。拾ってくれたのはここの侠客だけ」
「美玲は? 美玲に助けを求めなかったの?」
「運命ならば変えられる。さりとて天命は変えられず。美玲様のお言葉だ」
きっぱり言い放たれた声に、誰もが押し黙る。暁華や泰然は何も言わない。言えなかったのだろう。そう佩芳は推測した。
「辛気くさい顔なんざ見たくはないね。同情してるならそれもいらない。僕は君たちに事実を告げ、死ぬべきさだめだとやっと受け止めることができたんだから」
「……おかしいよ、そんなの」
「何がだい、公女」
「死ぬとわかって全部を受け入れるなんて。諦めたのと同じじゃない」
「そのとおり。君は真理を突いた。だからこそ絶望なんだよ。どうもがいても、足掻いても行く先が決まっているなら、人は何もしないだろう……僕のようにね」
不意に、仔静は笑った。自嘲気味な笑みだ。暁華が悔しそうに顔を背ける。
「夜霧が生き物。この事実を他言すれば、夢魔は確実にその天啓を得た、いや、思念を読んだ賢人を殺す。そうするように産まれたみたいだね、まるで」
「美玲も危ないだろ、それじゃあ」
「君が心配するのも無理はないさ、次期帝候補。……砂漠へ。シゴウ砂漠に行くんだ。そこに美玲様はいるはずだから」
「はず、では困るのですが」
「そう言うなよ、呪痕士。僕が最後に天啓を得たのは二の月前。移動していなかったら会えるだろうから」
「死なない方法もあったのでは? 夜霧のことを口に出さず、私たちの協力を……」
「突っぱねろって? ま、それも一つの道だけど。正直隠居することも考えたよ。大多数がそうしているように。でも、気に食わない」
「気に食わないってのはどういう意味だ」
「蛮勇でも振るってやろうってことさ。これはちっぽけな僕が持てる、最低限の矜恃だ」
にやりと仔静は笑った。顔には恐れも怯えもない。清々しいほどまでに覚悟を決めた、腹をくくったもののおもてだ。
「冷暗所に塩や水を用意してる。それを持って砂漠へ向かうことだね」
言って彼は立ち上がり、佩芳たちを退けるようにして家の扉を開ける。
あとを追った先、外にはいつの間にか男たちがいた。
三節棍や槍を手にしたもの、弓を持ったもの、様々だが、誰もが真面目な顔つきのまま仔静を出迎えた。仔静がまた笑みを浮かべる。
「馬鹿と酔狂もここに極まれり、だ」
「そう言うんじゃねえよ、仔静。この中邑を守るのは俺たちの仕事でもあらぁな」
一人が言うと、侠客と思しき男たちは屈託のない笑いを見せた。
「と言うわけで、君たちはとっとと準備をしてくれ。そろそろだから」
「そこまで言われて、はいそうします、なんて答えるオレたちだと思うか? なあ、佩芳」
「ええ」
「あたしも。あたしも戦うよ」
こちらを振り返った仔静に各々が告げれば、彼は呆れたように肩をすくめる。
その直後だ。黒い瞳がカッと見開かれたのは。
「……来る」