2-8:優しさなのか、別のものか
夜も更けた頃、広間にいる旅人たちが寝静まった隙に佩芳は水場へとおもむいた。途中、見回り数名とすれ違ったが、「寝ていて体を拭いていない」と伝えると納得したようだ。
水場は静かで、誰もいない。服を脱ぎ、体や顔を素早く冷水で浄めていく。口もゆすぎ、歯木で口内の掃除をしてから杜若の丸薬を噛みしめた。
苦味と共に、花の香りが口腔へ広がる。自分で煎じたものだが上手く作れた。
そういえば、と服を着つつ思い出す。暁華も杜若は服用していた。口臭に気を遣うのは女性としてのたしなみだろう。
(やけに考えてしまいますね)
ふと、気づいた。頭を占めるのは暁華のことばかりで、いつも寝しなに悩んでいた、あるべき居場所への懸念が抜け落ちている。
着替えを終え、嘆息した。
賢人の美玲に会えば、旅は終わる。泰然も美玲に用があるというし、暁華すらも彼女を見つけ、『霊胎姫』とやらの居場所を突き止めれば金冥の国へと戻ることだろう。
(私はどうする)
二人と離れ、また国々を渡る旅に出るのだろうか。今のところそれしか道がないように思えた。
しかし、今はそれを考えている場合ではない。朝にまず、仔静という男と会うのが先決だ。
一旦考えることを放棄した。風は相変わらず強い。風邪を引いてはこれからが大変だ。
しっかりと絞った布で、髪をぬぐう。さっぱりした気持ちで階段を上がり、中庭から広間へ出ようとした刹那だった。
中庭より曲笛の音が聞こえたのは。
天幕が張られている中庭へ顔を出す。石灰石が飾られた小さめの庭に、暁華がいた。
聞いたことがない、安らぎのある曲調だ。寝ているものたちへ配慮しているのだろう、音も静かで耳に優しい。
通路の欄干へ身を預け、一心に曲を奏でる彼女の横顔は神秘的な美しさを放っていた。清らかすら、感じた。
「まだ眠っていなかったのですか」
不意に言葉が口を突いて出る。音が、止まった。暁華が振り返り、こちらを見つけて小さく笑う。
「佩芳。ちょっとびっくりした」
「笛の音が聞こえたので、ついのぞいてしまったところです」
「うるさかったならごめんね。静かに吹いてたつもりだったんだけど……ねえ、こっち来て」
請われるように言われ、迷いもしなかった。庭の黒砂利を踏みしめて暁華の側へと寄る。彼女は髪を結ってはおらず、背中まである黒髪をそのままにしていた。
「眠れなくて、笛吹いてたんだ」
「緊張で、でしょうか」
「うん。仔静のところに、美玲がいたら……って思うと、なんかね」
「賢人がいるとは限りませんよ」
「そうだけど。なんか鬱々した気持ちになっちゃうの」
珍しく愁いを瞳に浮かばせ、つぶやく暁華に佩芳は小さく頭を横に振った。
「楽観的に考えるのがいいと言っていたではありませんか」
「それはそれ。全部、わかって……見つかって。そしたらあたしはどうなるのかなって」
「あなたには帰る場所がある」
「……佩芳には悪いこと言っちゃうけど、あたし、国に戻りたくない。戻ってもどうせ、隔離されるか離宮暮らしの毎日だろうから」
嘆息し、暁華が空を見上げる。佩芳もまた。
夢魔が入らないよう獣のなめし革で作られた天幕だけが、そこにはあった。夜霧すらもここからでは見えない。
「昔は空にホシ? とかタイヨウ? あと……」
「月、ですか」
「そうそう。そんなのがあったんだってね。どんなのか想像もできないけど。結局、全部を覆ってる夜霧ってなんなんだろ」
「……土鱗の国の古人は、五行にも属さない不可思議な術すら扱えたそうです。その類いなのでしょう」
小声で答えると、暁華はくすりと笑う。首をこちらに向け、少し意地悪い顔つきを見せた。
「今日はなんかおしゃべりだね、佩芳」
「学者として、子どもたちにものを教えていたときの癖です」
視線を合わせずに嘘をついた。村落や邑を放浪していたときでも、ここまで饒舌になったことはない。
特に土鱗の国の件については、自ら話す真似はしなかった。怪しまれては元も子もないからだ。歴史を学ばせる際におとぎ話程度のものを聞かせた経験はあるが。
「佩芳は学者もしてたんだね」
「知識だけは無駄にありましたから」
少しの間、二人で無言になる。
何を話せばいいのか佩芳は迷い、ようやく言葉を選んで静かに口を開いた。
「あなたはこの十年、どのように過ごしてきたのですか」
「あたし? そうだね……」
暁華が欄干の側にしゃがみこみ、遠くを見つめる。
「翠嵐が死んだあとは、一人でいたかな。女官たちも、あたしの噂を気味悪がって近付いてこなかったし。ご飯とか着るものとかはもらえてたけど……あ、本は読んだよ、佩芳の真似して」
「読み書きは独学で?」
「ううん、翠嵐から。いろんなこと教えてくれたよ。歌も、踊りも、笛も。本当にたくさんのこと。母様は小さい頃に亡くなってるから、翠嵐が実母みたいなものだった」
「よい方だったのですね」
暁華は小さくうなずいた。懐かしむようなおもてのままで。
「……今のあたしを翠嵐が知ったら、叱るだろうな」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、佩芳の胸が軋んだ。怒気よりも、不思議と困惑と焦燥が遙かにまさっている。
暁華がまた、誰かしらに色目を使うのではないかと思うと、複雑な気持ちになった。言い表せない感情がとぐろを巻き、重しが胃にのしかかったようになる。
「いつからですか。あなたが、その……」
「体を使うことを覚えたの?」
あけすけに言われ、押し黙る。
聞きたくないと思う反面、なぜか一歩、踏みこんでしまう自分がいた。
「護身術は兵に習ったんだけどね。そいつに辱められたの。十五のときだったな。……女としていつの間にか成長してたんだ、ってはじめて思った」
暁華の顔がまた、人形のような無機質なものへと変わる。
「そいつ、あたしが兄様に何も言わなかったからっていい気になってね。何度もされた。代わりにぺらぺら、王宮の現状とか教えてくれるようになって……そこで気づいたんだ。体を使えば情報も手に入るんだって」
身を僅かに震わせ、淡々と語る彼女を佩芳は止めたかった。だが、口から出るのは言葉ではなく吐息だけだ。
暁華は続ける。こちらを見ずに。思いの丈をぶちまけるように。
「金冥から追い出されても役に立ったよ。誰もあたしのこと、虚ろ子だなんて思わない。女だから油断するし、逆に肌を重ねたときだけはあたしをちゃんと見てくれるから」
苦々しい笑みを浮かべる暁華を眺め、歪んでいると佩芳は思った。
ねじれた倫理観。自らの存在を認めてほしいという、飽くなき欲求。ない交ぜとなった二つが彼女を壊した。
暁華はかぶりを振る。小さく、力なく。
「馬鹿だってわかってるよ。そんなことしても結局、何も変わらないって。汚れてくだけだってことも。だけど……だけどね」
「暁華」
震える声に名を呼べば、彼女ははっと我に返ったように目を見開き、唇を噛みしめた。泣くこともせず、両足へ顔をうずめる暁華の側へと佩芳は膝をつく。
「路地であなたを怒鳴った件を、私は謝罪しません。このままではあなたはまた、同じことを繰り返す」
「……うん」
「少なくとも泰然は、そんなことをして得た情報は望んではいないはず。もう自分を傷付けるのはやめなさい」
「佩芳は? 佩芳も、望んでない?」
顔を上げた暁華と目が合う。泣き出しそうなおもては彼女の幼い頃を連想させ、つい口元が緩んだ。
「私もです」
「公女としてとかじゃなくて?」
「ええ、関係ありません」
「……そっか」
そっと肩に触れれば、暁華の体の震えが止まる。
なぜ彼女に触れたのか、佩芳は自分でもわからなかった。ただ、つたない慰めの言葉をかけるより、行いを糾弾するより、そうしたいと思ったからだ。
暁華の負った心の傷を抉ることはたやすい。無関心を決めこめばいいだろう。しかし、彼女の過去を暴いた責任がある。責任を放棄し、干渉せずにそのまま無視することを、どうしても自分に許したくない。
これが人の言う優しさなのか、判断もつかないが。