2-7:柔らかな音
なごやかな時間はすぐに過ぎていく。周囲を見れば一人、また一人と食卓をあとにしていくのがわかった。
それに気づいたのか、先程まではしゃいでいた泰然もうなる暁華を手で押し止める。
「オレたちもそろそろ、水場借りてから寝るか。明日も早いしな」
「うん。泰然のせいで無駄に汗掻いちゃったし、さっぱりしたい」
「佩芳、あんたはもう少し遅くに水場を使うといい。痕は普段隠れてるとはいえ、一応な」
「そうします。部屋の見張りは私がやっておきますので、お二人は水場へどうぞ」
佩芳の言葉に、暁華も泰然もうなずいた。
邸店にはもう一つ、食事処の横に広間があり、雑魚寝などに使われる。火がついた中央の囲炉裏を囲み、旅人たちが談笑していた。
二階の個室へ向かう際、角灯を持った見回りとすれ違う。蝋燭の灯火は光源士の放つ光より弱いが、盗っ人対策と思えば頼もしい。
「じゃあな、また明日」
「お休み、佩芳。泰然も」
「ええ」
挨拶をし二人と別れ、佩芳も自室に入る。
簡単な施錠がされている部屋は、それなりに広かった。毛氈が置かれている牀褥に荷物置き場、そして外を覗ける丸い窓。体を拭くための布が荷物置きの机には畳まれており、評判がいいという噂にもうなずけた。
歩いたせいか、それとも満腹のためか疲労が体を襲う。しかし同時に充足感もあった。形容しがたい満足感が。
胸の疼きに困惑しつつ、革帯に挟んだ笛を取り出す。これを渡すのをすっかり失念していた。
(それにしても、虚ろ子とは)
つい、溜息が漏れ出る。暁華の発言には驚かされた。十年前、彼女が七歳だったとすると、三年後に事が露見したのだろう。
暁華は言った。「秀英が天啓を得た」と。
その天啓がなかったなら、彼女はとうに毒殺されていたはずだ。公では病死とされて。王家の恥となる存在なら、冷酷と名高い傑倫が直接手を下すこともいとわないだろう。
(私と会うこともなく、暁華は死んでいたかもしれない)
牀褥に腰かけ、笛を手でもてあそびながら思案に耽る。
天乃四霊にいとわれしもの。全ての四獣から加護を得られなかったもの。痕術を使うこともできない、畜生以下の存在だと虚ろ子は罵倒される。
なんのためにこの命があるの、と問われた言葉が脳裏によぎった。
虚ろ子だから、だろうか。暁華が体を使うこともためらわないのは。
あの滑らかな肌に触れさせることを許し、色目を使って男を虜にする。その事実を連想しただけで、また頭に血が上っていく気がした。
(彼女がどうねじれようとも、私には関係ない)
すぐ我に返り、一人かぶりを振ったときだ。
控えめに部屋の扉が叩かれた。
「……どうぞ」
一呼吸おいて、返答する。中に入ってきたのは、手に体を拭く布を持った暁華だった。
「これ……返そうと思って」
立ち上がろうともしない佩芳に向け、差し出されたのは貸していた羅針盤だ。薄く笑む彼女が、少し目を見開いた。
「曲笛だよね、それ。佩芳、笛を吹けるの?」
「……いいえ。商人から情報料として買い取っただけのものですので」
「そっか。懐かしいな。あたし昔、下手くそな曲、聞かせたもんね」
苦笑を浮かべる暁華に、そうだろうか、と佩芳は内心で疑問に思う。
「下手だとは思いませんでしたが」
「本当?」
嬉しそうに微笑む彼女へ、曲笛を向けた。
「よければ差しあげます。私が持っていても意味がない」
「いいの? ありがとう。凄く、嬉しい」
「安物ですが」
「値段は関係ないよ」
目を輝かせる暁華から羅針盤を受け取り、代わりに笛を渡す。彼女は布を机の上に置いて、手にした曲笛をまじまじと眺めていた。
「……まだ起きてる人も多いし、一曲吹いてもいいかな?」
「ここでですか」
「あ、迷惑だったら部屋に戻って吹くよ。って言っても久しぶりに使うから、前より下手になってるかもしれないけどね」
「……どうぞ」
とりつくろった物言いに、しかし佩芳は自然と承諾していた。暁華が笑みをより深める。
彼女は笛を唇に当てた。数回、音の出方を確かめて目を閉じる。
それから、しなやかで、よどみのない旋律が流れた。壮大な河川と森を連想させる音色は昔、暁華が禁忌の宮で披露してくれたものと同じだ。丸みのある音階はたどたどしいどころか、過去より遙か巧みになっている。
部屋に響く音は、佩芳の心身に染み渡った。自然とまぶたを閉じてしまう。十年前と同じように。ただただ、流暢な音階に聞き惚れた。
思えば音楽を知ったのも、暁華が笛や歌を聞かせてくれたときからだ。母の子守歌はついぞ耳にしたことはない。
母、藍洙は呪いのように繰り返した。「土鱗の王族に連なるものとして、誇りを失ってはいけない」と。
失われた、見たこともない亡国へどんな矜恃を持てばいいのか、今も佩芳にはわかっていない。厳しい教育に疑問を覚えたこともある。狂った母には何も言えなかったままだが。
つらつらと昔のことを思ううちに、笛の音が不意に途切れたことに気づく。
まぶたを開ければ、暁華がこちらを見て困ったような顔をしていた。
「どうしましたか」
「難しい顔してるから。やっぱり、下手だよね」
「いいえ。昔より上手く感じました」
「そう? よかった」
心から安堵したように、彼女は長い吐息を吐き出した。それから苦笑を浮かべる。
「礼儀とかさっぱりだけど、笛と踊りは得意なの。雑技団にも入れちゃうかな」
「美玲を見つけたならば、金冥へ戻ることもできるのでしょう?」
暁華は佩芳の問いに、答えることをしなかった。曲笛を革帯へ挟み、再び布を手にする。
「あたし、水場へ行ってくるね。笛、ありがとう。大事にするから」
それだけを言い残し、暁華は部屋から出ていった。一人残された佩芳の耳には、未だ、柔らかな旋律が残っている。
不可解なことに、また聞きたいと願う自分がいた。