2-6:孤独は溶け消える
路地裏から表通りへ行けば、人々がせわしなく家屋へ入っていくのが見られる。あちこちに松明を灯していくのは駐屯兵だ。
邸店の前に差しかかったとき、暁華がすっと手を離した。
隣を見下ろせば、彼女もまたこちらを見上げている。
「もう大丈夫。ごめんね、佩芳」
苦笑いを浮かべ、駆け足で邸店へと入っていく暁華の背が、今まで以上に小さく見えた。
佩芳はしばらくその場に立ち尽くす。
何に対しての謝罪なのだろう。気遣いへの礼だったのか、あるいは自分の怒りをなだめるためのものなのか、見当がつかない。
静かにかぶりを振り、繋いでいた手のひらを眺めた。
温もりがまだ、そこにある。なぜ彼女と肌を触れ合わせても忌避感を抱かなかったのか、それすらもわからない。
「どうしたよ、佩芳。突っ立って」
声をかけられおもてを上げれば、赤ら顔の泰然が目をまたたかせていた。酔っているのか、酒精の香りをまとわせている。
「いえ、なんでもありません。あなたこそどうしました。酔われているようですが」
「ちょっと訳ありでな。中に暁華もいるんだろ? 入るとしようや」
佩芳の返事を待たずに、泰然は邸店へと戻っていく。歩調はしっかりとしており、酩酊している様子はなかった。
佩芳もあとに続く。入口付近にも食事処となっている広間にも、人がごった返していた。四人がけの席をとった暁華が、こちらに向かって手を大きく振っている。
席についた瞬間、暁華が泰然を見ながら鼻をつまむ。
「泰然、何してたの? お酒臭いよ」
「まあまあ、こらえてくれ。これでも死ぬ気で情報集めしてきたんだからよ」
「本当かなあ……」
「お前さんこそ迷子になってなかったか?」
「なってない! ぐ、ぐるぐる回ったりはしたけど」
「へいへいっと。そんじゃ、飯食いながら話でもするか」
泰然が佩芳を見る。佩芳はうなずく。あまり腹は減っていないが、しっかり食べねば朝に支障を来すというものだ。
川エビの炒めものに青菜のあつもの、アヒルのあぶり焼きと黒茶を店員に頼む。暁華の頼みで、彼女の分だけごま団子を追加した。
「お二人さん、聞き込みの方はどうだった?」
「みんな、あんまり賢人について話したがらなかったかな。何か隠してる感じがしたよ」
「そうですね。私は私塾にうかがいましたが、そこでも賢人と出せば態度が変わりました。ですが」
出てきた黒茶を飲み、佩芳は小声で続ける。
「酔狂な男がいる、とは商人の話です」
「そりゃ仔静のことだな、きっと」
同じく顔を合わせ、ささやく泰然に暁華がまばたきをした。
「仔静って誰? 探してるのは美玲だよ」
「そう急ぐなって。侠客たちに酒を奢って口を割らせた。どうやら私塾に通ってた男らしい。そいつは、夢を見て未来を予知する」
「天啓を得る、ということですか」
「多分な。おかしくなった、とかで私塾を追われたところまでは聞いた」
そこまで泰然が話したとき、食事が運ばれてきたので思わず全員、口をつぐむ。
だが、店員は気にすることもなく厨房へと戻っていった。書き入れ時ということもあり、一般の客に構う余裕がないのだろう。
「……それで、その仔静って人は侠客たちのところにいるわけ?」
「ああ。会わせちゃくれなかったけどな」
「南に住んでいる、という話も聞きました。侠客たちの住処へ行く必要がありますね」
「朝一で向かってみるか。暁華は留守番」
「なんで?」
「そりゃ……お前さん、物騒だからだよ」
泰然は苦笑する。だが、暁華は首を横に振った。
「ここまで来たからには一緒に行きたい。お願い、泰然、連れてって」
「って言われてもなあ……」
困ったように泰然は鼻を掻き、視線を佩芳へ向ける。赤い瞳には説得してくれ、という思いが込められているように佩芳は感じた。
泰然の理屈はもっともだ。侠客たちは義を重んじ、自らの芯を曲げる真似はしない。誰彼構わずに手を出すことはないだろう。が、機嫌を損ねれば刃傷沙汰になる可能性も高い。
しかし、暁華の気持ちもわかる。今ならば。自ら賢人に会い、謎めいた『霊胎姫』という存在のことを聞き出したいという思いは。その二つが彼女の生きる糧なのだろうから。
悩みあぐねたのち、真剣な眼差しを作っている暁華を見た。
「余計なことを口走らない、と約束できますか」
「おい、佩芳」
「私たちの言うことを聞き、勝手な真似はしない。余計なことも話さない。その二つを守れるならば……泰然、連れて行ってもいいのでは?」
「約束するよ、佩芳。あたし、いい子にする」
ぱっと暁華の顔が輝く。一方の泰然は天井を仰ぎ、それから大きな溜息をついた。
「……雇い主の願いとあっちゃあな。仕方ないか」
「本当? 一緒に行ってもいい?」
「その代わり、佩芳の言うとおりにするんだぞ。オレの言うことも聞くこと」
うんうん、と暁華は嬉しそうに何度も首を縦に振る。それからようやく、食事に手をつけはじめた。
「やっぱお二人さん、何かあったんだろ」
酒臭い息を吐息に、泰然が横の佩芳にだけ聞こえる声でささやく。炒めものを口に運び、佩芳は無言を貫いた。
「ま、こっちとしては角立ってるよりかはいいけどな」
「何もありません」
「嘘つけ。ころっと態度変わってるぞ」
「……少し思うところがあっただけです」
「十分すぎだ」
笑われ、自分でも手のひら返しが過ぎると自嘲する。暁華の立場に哀れみでも覚えたのだろうか、と。
すぐに憐憫ではない、と思い直した。彼女との思い出は寿命にすれば短い、微々たるものだ。それでも昔を想起すれば、暁華との関わりだけはほの明るく感じる。
火山のような感情の噴出もはじめてだった。自分の中に芽生えはじめた何か。それを言葉にするには、経験が足りない気がする。
「また男二人でひそひそ話して。ずるい」
「ずるくない」
頬を膨らませる暁華に構わず、泰然が素早い動きでごま団子を手掴みし、口に入れた。
「あっ、あたしの団子。返して」
「美味いな、これ。もう一個くれ」
「だめっ。自分で頼んでよ」
けらけら笑う泰然を、暁華はにらんだ。だが、彼は相変わらず飄々とした素振りでアヒルへと手を伸ばす。阻止しようとする暁華は躍起になっていた。
一気に騒がしくなった食卓に、佩芳は薄い空気が一枚あるな、と思う。暁華たちと自分をわけ隔てる空気の層のようなものが。
二人の仲はいい。馬が合う、とでも言えばいいのだろうか。笑い合う二人を見ていると、不思議と食欲がなくなった。そして不意に、気づく。
孤独とは、誰かがいてはじめて感じるものなのだと。
母の藍洙が死んだときも、幼い暁華と別れたときも覚えなかった感覚。旋の邑や他の村落でも覚えることのなかった孤独という感情は、他者に介入していなかったからだ。
無論、医者としての力量が足りず、看取った患者も中には大勢いる。しかし、自分の手際の悪さを悔やんだだけだ。それは結局他人と、自分の一線を区切っていたからではないだろうか。
箸を持つ手が、少し震える。かしましいと感じていた団欒に、焦がれる自分が確かに今、いた。
「いいもん、あたしは佩芳のもらっちゃうから」
名を呼ばれ、顔を上げれば揚げものを箸で摘まむ暁華と目が合った。
「……食べてなかったからもらっちゃったんだけど……だめ、だった?」
「……いいえ」
「じゃあオレももらおう」
「泰然は食べ過ぎなの! 遠慮してよね」
「隙あり」
「また団子とってっ……佩芳、こうなったら泰然の分、二人で食べちゃおうよ」
「……そう言われましても」
「奪えるもんなら奪ってみな」
「あーもう、お皿、持ち上げるのは反則でしょっ。背丈考えてよね」
先程の件がなかったように、暁華はふるまう。明るく、活発に。なんとなく佩芳の気持ちは落ち着く。
持った箸が勝手に動いた。目の前に寄せられた泰然の皿からアヒルの肉をつまんでみせると、泰然が「げっ」と声を上げる。
「酔ったあとの油ものは、体によくありませんから」
言って、肉を咀嚼した。美味く感じた。今まで食べてきたものは砂だと思えるほどに、何よりも。
独りではない、そう思うとなおさらだった。