2-5:寄る辺なきものたち
東に向かうにつれ、川が少し濁りを見せている。ごみや糞尿の匂いも漂いはじめた。船運でそれら二つを回収していると思えば、仕方のないことなのかもしれないが。
富裕層のものと思しき家には園林が作られ、ヤナギやシャクヤクの葉がそよいでいる。そこら中でたむろし、かしましく会話を続ける中邑のものは、こちらを気にする素振りを見せない。旅客や商人に慣れているのだろう。
(まずは私塾に行きましょうか)
やみくもに聞いて回るより、学識のあるものの頭脳を借りる方がいい。そう考え、土地廟付近にある私塾へと足を運んでみた。
探し人がいると話すと、出てきた老人は穏やかな顔をそのままに話を聞いてくれた。だが、美玲という女性のことは知らない、と首を傾げる。
「賢人だという話もあるのですが、それでもご存じありませんか」
佩芳が問えば、一瞬老人の顔が強張った。
「知りませんな」というすげない返答に、何かを隠していると確信する。しかしここで追求すれば、下手をすると怪しまれてしまうかもしれない。兵を呼ばれるのは厄介だ。
簡易な礼を述べ、早々に私塾をあとにした。
帰りは別の道筋を辿ることにする。民家近くの船着き場にいた商人へ話を振ってみた。
「いやあ、聞いたことはないねえ。賢人? それならなおさらさ。侠客の連中に話を聞いた方がよさそうだがね……ところで何か買っていかないかい」
煙管を吹かし、船に積まれた荷物を指す男へ内心、佩芳は苦笑する。全く商魂たくましい。だがこれも、情報料の代わりと思えば払った方がいいだろう。
男に品を見せてもらった。鞠や弾弓、短めの竹馬など、子供用のおもちゃが多い。どれも旅には使えなさそうだ。困って視線をさ迷わせれば、荷物の隅に朱塗りの曲笛があった。白ボタンの絵が美しい。
ふと昔のことを思い出す。禁忌の宮にいたとき、暁華が曲笛を吹いてくれたことがあった。まだ幼いだろうに、それでも技巧はなかなかのもので、つい聞き惚れたくらいだ。
「その曲笛をいただけますか」
口から言葉が勝手に出ていた。自分でも驚くくらいに、あっさりと。心の中でうろたえるも、男はうなずき笛を差し出してくる。
こっそり嘆息し、謝礼もこめて多めに代金を支払った。すると機嫌がよくなったのだろう、彼は金を数えたのち、周囲を見渡してから声の抑揚を抑えてささやいてくる。
「これは噂程度のものだがね。この町の南に一人、酔狂な男が住んでるって話さ。なんでも侠客たちが一目置いてるやつらしい」
「男、ですか」
「学者の卵だったらしいが、詳しいことは知らない。もしかすれば探し人の件を聞いてくれるかもわからんね」
「なるほど……」
「ああ、おいらが話したって言わんでくれよ。商いができなくなっちまうからな」
「留意します。ありがとうございました」
曲笛を革帯に挟み、佩芳はうなずく。それから階段を上り、歩きながらしばし思案した。
学者の卵というからには、私塾に通っていた可能性もある。問題でも起こして厄介払いされたのだろうか。
(商人の話からして、あまり表沙汰にしない方がよさそうだ)
南に向かった泰然が、何かしらの情報を得てくれればいいが、と腰に手をやったとき、指先に曲笛が当たった。
自分は笛を吹けない。口笛だけだ。幼い姿の暁華が、楽しげに笛を吹く姿がいやでも思い起こされる。柔らかな曲調、それすらも。
(さっさとこれを渡してしまおう)
一度西側へ戻ることにした。空を見れば、若干、高台の方が薄い藍色に変わっている。ちょうどここいらが潮時だろう。
船を漕いでいた商人たちも、そそくさと川から上がりはじめていた。人気も少しずつなくなっている。みな、夜に備えて家などに入る準備をしていると思えた。
佩芳が邸店近くの角を曲がり、近道をしようと路地裏に入り込んだときだ。
「ねえ、本当に賢人のこと知ってるの?」
「知ってる、知ってる。だから、な?」
聞き慣れた、いやでも聞き覚えのある女の声と、下品な男の声がした。思わず角に身を潜め、佩芳は首だけで路地を覗き込んだ。
暁華と見知らぬ男だった。男は鼻息を荒くし、興奮状態にあるのがわかる。彼女はしなを作り、ここでも、変わらず、気を惹くように欲情を誘うそぶりを見せていた。
頭痛がする。あどけない暁華の顔がまた、浮かぶ。汚れを知らぬ柔らかな旋律が佩芳の脳裏一杯に広がったとき、手が勝手に動いていた。
口笛を高く鳴らした瞬間、男が動揺する。
「やべえ、風紀兵か!」
「ちょ、ちょっと待っ……痛っ」
男は顔を真っ青にし、暁華を突き飛ばした。それから表通りの方へと走って消えていく。どうやらここでも、勝手に春を売る人間の取り締まりはなされているようだ。
だが、そんなことはどうでもよかった。佩芳の全身の血が滾る。薪の束に腰を打った暁華の元へ、靴を鳴らして近付いていく。
「あ、佩芳……」
立ち上がった暁華の肩を掴み、思い切り壁へと叩きつけた。痛覚にだろう、彼女の顔が歪む。
「何をしているのです、あなたは」
「痛い……痛い、よ、佩芳」
込められた怒気に気付いたのか、暁華が体を震わせる。それがまた、佩芳の癪に障った。
「媚びを売り、体で情報を得ようとしていたのですね。公女としての誇りはどこにある!」
怒鳴り声に、彼女は怯えを顔に出した。
怒りなど、佩芳は自分にはないものだと思っていた。一番縁遠い感情、それは怒気だと。だが、暁華という存在が心をかき乱す。知らない感覚が理性を滅し、耳鳴りまでしてくる始末だ。
暁華がうなだれた。反省でもしているつもりか、とせせら笑ってやりたくなる。
「……ないよ、そんなの」
絞り出すような声で、暁華はつぶやく。
「公女の誇り? 何それ。そんなのがあるならあたしは今、ここになんていない」
佩芳が眉を寄せた瞬間、肩を押しとどめていた腕を暁華は手で打ち払う。
「そんなの、豚にでも食わせればいいっ。言ったでしょ!? あたしはいらない子だってっ」
顔を上げた暁華の目、白い瞳はぎらぎらと異様に輝いていた。怒りか、悔しさか、あるいはもっと別の何かで。
思わず唾を飲みこむ佩芳に構わず、彼女は憤怒のおもてを作る。
「あたしは金冥にはいらないの! 金冥だけじゃなく、この世のどこにもいらないの。兄様も父様もあたしを見捨てた。公女なんて立場、もう、あたしにはないっ!」
「……なぜです。なぜあなたは廃嫡されたのですか」
唇を噛み、こちらを見上げて瞳を潤ませる暁華に問う。この世のどこにもいらない、とはどういう意味なのか、全くわからない。
たずねれば、彼女は顔つきを変えた。まっさらな虚ろ、何もない人形のようなおもてとなる。
「あたしには、痕がないから」
「……痕が、ない?」
「虚ろ子。佩芳なら、ううん、みんな知ってるよね。十歳のときに誰もが持つ痕が、あたしには浮かんでこなかった。だから、王宮から捨てられた」
淡々とした声音に、佩芳の頭は追いつかない。
彼女はなんと言ったのだろう。虚ろ子――すなわち、天乃四霊の加護を持たぬもの。
「あなたが、虚ろ子……?」
「他の国じゃ見つかったら死罪だよね。不吉だって。でもあたしは、生まれが生まれだから。離宮でずっと暮らしてたよ。佩芳がいなくなってもね」
暁華の笑みが歪む。自虐的な、朗らかさとはかけ離れた歪な笑みだ。
「誰もあたしを見てくれない。不吉だから見てくれない。じゃあなんのためにこの体が、命があるの? 佩芳ならわかる? 教えてよ、ねえ」
逆に問われ、しかし佩芳は答えが出せなかった。
確かに、虚ろ子という存在が生まれる場合は稀にある。痕がない、ということは、四霊に嫌悪された存在としての烙印を押されるようなものだ。大抵は十歳を過ぎた辺りで命を奪われる。
「……死罪にならなかったのはなぜですか」
「秀英が、天啓を得たの。十七のときに追放せよって。その方が得をするからって」
「得?」
「詳しいことはわかんない。兄様も教えてくれなかったしね。金冥の国に幸を恵む可能性がある、だって」
そこまで言って、暁華はその場に尻をつく。両腕で顔を覆い、胎児のように丸まった。
「……勝手だよね。追い出して、賢人とかを見つけろだの。野垂れ死んだらそれはそれで僥倖。美玲を見つけてきても僥倖。見つけて戻れば、また国で過ごしてもいい、だって」
小さな両肩が震えていた。
幼子のような姿に、佩芳は何も言えないまま彼女を見下ろした。
(虚ろ子ゆえ、どの痕術を扱う素振りを見せなかったのか)
忌避され、世間からつまはじきにされる存在であることを打ち明けられ、先程までの怒りがどこかに溶けていくのを感じた。
――彼女と自分は同じだと思ったからだ。
どこにも寄る辺がない二人。痕の有無という違いはあれど、暁華はもう一人の自分だ。
空を見上げた。白色に藍色が大分侵蝕されている。色の階調は美しく、それでいてどこか冷たさを帯びていた。
「……夜になる。邸店に戻りましょう」
声は硬いが、怒りはもうどこにもなかった。
風も強くなってきている。泰然はすでに店へ戻っているかもしれない。心配をかけ、すれ違いになれば大変だ。
「さあ」
迷った末、手を差し出す。先程肩を掴んだ手を。
のろのろとした動きで、暁華が顔を上げた。瞳の奥は暗いままだ。
彼女も迷ったように、子どものような面持ちで差し出された手を見ている。
「さあ、暁華」
佩芳はもう一度、声をかけた。それから自失する。彼女の名を呼んだのは、これがはじめてだということに気付いて。
彼女もその事実に思い至ったのだろう。泣き出しそうな顔つきで、怖々と手を重ねてくる。
肌は滑らかで、体温が熱い。手を握ったことに対し、佩芳は不思議と嫌悪感を覚えなかった。