禁忌の宮
「あなたはどうして、ここにいるの?」
この世界に月はない。陽もない。あるのは延々と続く夜だけだ。
少なくとも佩芳が産まれた前から――宮の壁に刻まれている無数の跡が示す月日から数え、百四十年。未だ夜霧が四ツ国を包んでいるのは間違いないだろう。
「ねえ、どうしてこんなとこにいるの?」
少女の声は本を読む佩芳にはわずらわしい。興味は少しばかりあるが。
無視し、遠くの光源士が灯す昼の明かり、白色の微光に照らされる書物へ目を落とす。
「あたしは暁華。あなたは誰? どうしてこんな危ないところにいるの?」
「質問は一つにしなさい」
呆れながら発した言葉で、佩芳はほぼ五十年ぶりに誰かと話したことに気づく。それと同時にまばゆい光が揺れ、階段側を照らした。
仄かな甘い香りがするからに、光源は少女が持つ蜜蝋なのだろうと思い至る。
かぐわしい匂いに負け、本から視線をやれば、幼い娘が笑顔でこちらを見ていた。年の頃は十歳前といったところだろうか。
黒い長髪に光をたたえた白い瞳。胸まで引き上げられた裳、紅色の薄い衫には細かな白虎の刺繍が入っており、この暗い宮にそぐわない華やかさがある。
「本がいっぱいあるね。これ、全部あなたの?」
蜜蝋の角灯をあちこちにやる少女――暁華は楽しそうだ。
佩芳は溜息をつき、本を閉じて積まれた書物の上に置いた。
暁華が整頓されていない本や竹簡の山を擦り抜け、よりこちらへと近付いてくる。
「ここに来てはならないと、あなたは誰にも教わらなかったのですか」
「知ってるよ。ここが禁忌の宮だって。いらないものを捨てる場所なんだよね? お父様……あ、違う、父帝様にも兄様にも内緒で入っちゃった」
「ではあなたは公女だと。金冥の国の」
「そうだよ。それであなたは誰?」
「……佩芳」
他人に名を教えるのはこれがはじめてだ。死んだ母につけられた名を、なぜ教える気になったのか自分でもわからない。ただ、彼女という異質な存在に好奇心があったからかもしれない。
佩芳、佩芳、と何度も名をつぶやき、暁華は笑みをより明るくさせた。
「佩芳はすごく綺麗な男の人だね。白い髪も金の目も、たからものみたい。肌も白いし」
「名は教えました。今すぐここから立ち去りなさい」
角灯をこちらに向け、褒めてくる暁華を佩芳は一蹴した。声音をできるだけ硬くし、まぶしすぎる光に目をすがめながら。
「あなたがここにいる理由、まだ聞いてない」
それでも彼女の興味はまだ尽きていないようだ。好奇心や聞きたいことは佩芳にもあるが、警戒の方が強い。
「私のことは忘れなさい。さあ、早く。そろそろ夜を示す色になる。周りのものに心配をかけてはいけません」
発した言葉に、暁華ははっとした様子で窓を見た。光源士が灯す色は藍色に変わろうとしている。藍色は夜を示す色。夢魔も出る危険な時間帯だ。
「……うん」
小さく言い残し、彼女は角灯を持って背を向けた。書庫と化している本の間をくぐり抜け、その小さな姿を消す。
階段を駆け下りる音が大きく響いた。佩芳は長い呼気を吐き、少しだけ、ほんの僅かに後悔する。
金冥の国の帝は今、何代目なのか。母を孕ませ、自分をここへ追いやった皇弟は死んだのか。母の弟、叔父はどこにいるのか――
聞きたかったことを考え、頭を振った。長く伸びた白髪が揺れる。そんなもの、自分には関係ないと思い直して。
この宮はきっと自分の生まれ落ちた場所であり、同時に墓場となる場所だろう。延々と続く夜霧が晴れないように、路傍の石ころと変わらぬ生活を送る身分が変わらぬように。
椅子から立ち上がり、宮の最上を目指す。完全に藍色となった光源が窓を染めている。石造りの階段を上り、木の扉の鍵を開けた。
奥にあるのは死だ。正確に言えば死骸の山だ。夢魔の死体が放りこまれるもう一つの墓場。
山羊の体に虫の羽をつけたもの、人の体と蛇の頭が合体したもの――これら奇怪な生き物は総じて夢魔と呼ばれる。民や家畜に危害を与える夢魔たちからは、すでに腐った匂いがしていた。
佩芳は血と臓物、体液でぬかるむ床を踏みしめ、服と呼ぶにはあまりに粗末な衣を汚すこともいとわず、死体を漁る。できるだけ新鮮な、死んだばかりの夢魔を食らうために。
丁度よく、ワシにマスの頭がついた死骸を見つけた。無造作に掴み上げるとその体が小刻みに動く。久しぶりに新鮮な肉が食べられそうだ。
味など気にもしていられないが、腐肉よりかはまだいい。死体の山から抜け出て、かまどの方へと向かう。
「火よ」
言葉によって無から火が生まれ出る。なかば朽ちた鍋の上に夢魔を投げ、手に宿った炎で肉を焦がせば油のいやな匂いが充満した。
誰もが十歳のときに受け継ぐ痕、そして詠唱を放たず術を使う佩芳を見たものならば、誰もが恐れおののき、忌避するだろう。
呪痕士だ、と。
二百年前に滅んだ母の国、土鱗の国の住人はみな、呪痕士と呼ばれる民だったという。四ツ国に資源を狙われ、滅ぼされた土鱗の国。栄華を極めた故郷を語る亡き母は、幸せそうだった。幼い自分がわかるほど、哀れで愚かなまでに。
炎にじんわりと焼かれ、死んでいく夢魔を見ながら思う。故郷、郷愁。そんなもの今の佩芳にはない。宮の中で産まれ、そして誰にも看取られず死ぬのだろう。
それでいい、と思い、木の椀に水を生み出す。冷ました夢魔を食べた。
今日の夢魔は、意外と美味に感じた。
※ ※ ※
忠告を無視し、宮へ来る暁華と多少話し数ヶ月。よっぽど暇らしい。彼女は苛立つほど無邪気に語る。
「兄様が鳥の羽で熱を出した」だの「こないだ兄様が帝になった」だの、佩芳が聞いてもいないのに様々なことを。
「公女だというのに、随分余裕があるのですね」
皮肉を込めて告げれば、彼女は服が汚れることも気にしていないのか、階段に座りながらうなずいた。
「兄様が帝だもん。あたしは炎駒の国へ嫁ぐんじゃないかな。まだ相手、決まってないけど」
彼女は饒舌だ。佩芳が何者かを聞くこともせず、次々に話題を繰り出してくれる。
「父帝様はね、十代目。兄様が十一代目になったよ」
「あなたの曾祖父……先々代の帝には弟がいたはずですが」
「亡くなっちゃったって。もうかなり前。そんなことも知ってるんだね、佩芳」
なるほど、と佩芳は納得した。
母をさらい、自分を孕ませた男の末路はどのようなものだったのだろう。それを聞くには、彼女は幼すぎる。
「ねえ、何か話してよ。佩芳のことは聞かないから」
何かと言われても、と暁華の言葉に冷ややかに思った。
四ツ国や夜霧の成り立ち、二百年前にあった土鱗の国との戦い、その程度は王族としてたしなみに聞かされているだろう。
「とりたててあなたに話すことはありません」
「昔の本だよね、ここにあるの。難しくない? あたしは読めないよ」
「読み書きは母に教わったので、特には」
「佩芳のお母様ってどんな人?」
「愚かな人でした」
淡々と返せば暁華がこちらを振り向く。何かを喋ろうとして、小さな口が開いたのを佩芳も見たが、言葉はなかった。
「……あのね、佩芳」
少しの静寂ののち、暁華が何かを言おうとした、そのときだった。
下の階、入口の扉が大きく開く音が響いた。びくりと彼女が肩を震わせる。
足音の数、総数十か、と佩芳は冷静に考えた。
宮を上ってきたのは、暁華と同じ黒髪と銀の瞳を持つ青年だ。周りには護衛と思しき兵たちが九人いる。
青年は鳥ではなく、猛獣の羽毛がついた外套をたなびかせ、切れ長の目で佩芳を見つめる。
「傑倫……兄様」
暁華が佩芳を庇うように前に出た。
笑いもせず、叱りもせず、青年――傑倫は黙って暁華の小さい肩を掴んで、退ける。
「佩芳。我が国の恥にして汚点たる男」
玲瓏な声が涼やかにこだまする。ああ、と佩芳は微笑んだ。
今日が自分の命日なのだろうと思えば、笑みも浮かぶというものだった。
「貴君をここから追放する。二度と、我が金冥の国には入ることのなきように」
「兄様!」
「これは帝として最初の主命である。何人もこの命に逆らうことなかれ」
佩芳は珍しく呆けた。まだ生き長らえるのかと。処刑ではなく追放とは、新たな帝は随分と慈悲に満ちているらしい。そんな皮肉を紡ぎたくなった。
傑倫の横にいた兵士が、無造作に麻袋を地面へ置く。
「ここに支度金と服を準備させた。百両もあればしばしの間、他の国で生きるのに不自由はしないだろう」
「兄様、待って! 佩芳は何もしてない」
「先程も言ったはず。主命だと」
暁華がこちらを振り向く。泣き出しそうなおもてに、ただ佩芳は立ち上がる。
「お心、感謝いたします」
嘘をついた。何一つ嬉しくもないのに。
「今すぐに支度せよ。馬も一頭くれてやる。……誰か、暁華を連れて行け」
「せめて佩芳を見送らせて!」
「失礼、公女様」
兵士の一人が叫ぶ暁華をやすやすと持ち上げた。抱えるようにして階段を降りていく。こちらを見つめる暁華は兵の腕の中で暴れていた。金属製の歩人甲に拳を何度もぶつけて。
やめなさい、と佩芳は思う。その拳の痛みを受け入れるには、あまりにも自分は虚ろ過ぎるように感じたために。
こんな心があるのかと驚き、自嘲しつつ、衆人の前で身支度を整える。肌をさらす羞恥など、これっぽっちも感じない。
それから兵士に囲まれ、宮を出た。
光源士が灯す色は夜を示す藍色。深い色を浴びなから、佩芳は一度だけ宮を振り返る。
森に隠された禁忌の宮。生まれ落ち、長年暮らしていた場所へも、全く感慨に耽られなかった。
(私はどこへ行くのだろう)
脳裏をかすめた疑問に、不思議と一瞬だけ暁華のおもてが浮かんだ。