308号室で・鉛色の空の日に・偽物の星を・なおしてもらいました。
僕は、ハンドルの革に汗がにじんだと思った。車の運転には平時から慣れているが、ホテルに入るのはどうも緊張する。ホテルのロビーにいるだけでは客と、ただの見物人や待ち合わせだけと区別が付かない。そこでホテルの客側に転ぶための架け橋であるフロントが、僕を客と見なすかどうかの試練のように思えて、あのぴかぴかと光るフロントが少し怖い。高級なホテルでなくても、それがシティホテルだろうがビジネスホテルでも同じだ。
そんな話を、緊張で黙ってしまったお詫びに同行者に話した。彼女はくすりと笑う。
「恐がりなのね。そんなの、気にしなくていいのよ」
「気にしちゃうんだよな」
「繊細なのね」
そもそも僕の傷心旅行に、彼女は付いてきた。卒論のために資料を集めていた僕は、大学図書館でふしぎな体験をした。二階の窓から現れた男子高校生に、首を横に振られた。それ以上踏み入ってはならないと彼は言っていた気がする。言葉は無かったが、その目は必死だった。その彼がなんだったのか、考えると急激に自分の研究が怖くなって、実家に逃げ込んでから二週間。ゼミのメンバーや教授には体調が悪いと言い、僕はようやく外に出て、レンタカーを走らせて今に至る。この言いようの知れない恐怖を振り払いたかった。どこでも良かったし、誰でも良かった。でも彼女は嫌な顔一つせずに同行してくれた。それについて深く感謝している。目的のホテルが見えてきた頃、彼女が隣の席で、細い指を使ってまるで所有物のように指し示す。
「あれよ」
「高そうだね」
「気にしないで。私の言うことを聞いて」
命令口調のようにも思えるが、彼女は生まれつきそういう気質があった。ホテルを所有物のように指差したり、迷ったら自分に従うようにと揚々と言い放つ。にこにこと笑って、その愛嬌からその分を差し引いてもお釣りが来るほど可愛い。
「あのホテルにしましょうね。それで、部屋はそうね・・・」
指で頬をぷにっと押さえて考えるような仕草をする。子供っぽい仕草だが、まだ子供と大人の間を行き来する大学生だ。そこまで変でもない。
「三階がいいわ。見晴らしが良いから」
「そうしよう」
僕はハンドルを左に切った。彼女が左に座っている。このハンドルは、すべてを彼女の言う通りにするような気がした。
フロントはやはり緊張したが、空きがあると笑顔でフロントマンが言うのにほっと安心した。そういえば道中で、コンビニの店員と短い会話をした時にもほっとしたものだ。今日はほとんど彼女としか喋っていないので、他人との会話で安心してしまうのだろう。実家に籠もっていた時は、通話はしたものの人の顔を見るのは家族だけだった。だから何気ない言葉に感動してしまう。社会性があると自分が再認識する為のプロセスだ。
「こちらがお部屋の鍵となります」
カードキーを渡されて、ダブルの部屋に僕は向かうことにする。彼女は僕の斜め後ろにぴったりとくっついていた。先程まであれほど揚々と僕を導いていたのに、他人との会話になると僕の陰に隠れて何も言わないのだ。頼ってもらえるのは少し嬉しいのと、どうしたんだとからかいたくなる。だがまだ大勢が行き交う人前なので、僕はひとまず部屋に向かってから彼女をからかう事にした。
エレベーターを使って三階へ、あっという間に部屋にたどり着く。カードキーを奪うようにして彼女が取り上げ、部屋へ滑るように入ったのには笑ってしまった。急に揚々とした彼女が戻ってきたようだ。僕も閉まる前の扉を掴み、部屋へ入り込んだ。長い黒髪の彼女は、窓を眺めながら感嘆している。
「人見知りだね」
「そうよ。だって見られたくないもん」
カードキーをちゃんと扉横のポケットに刺さっていた。だから部屋の電気が使える。僕はトイレと風呂を確認してみた。広くて清潔感のある場所だ。掃除が行き届いていて、気持ちが良い。心を込めた清掃は、宿泊者の心を晴らしてくれる。僕の心もだんだんと晴れていって、と鏡を見て僕はぎょっとした。顔が思い描いているものと違う。鏡の中の僕の顔は、どうしてか曇っている。顔の皮膚が垂れ下がって無表情で、空で言うのなら鉛色をしていた。彼女との一泊だ、浮かれないわけがないのに。それなのに僕は、なんでこんな顔をしているのだろう。先程、不自然なまでにフロントマンが笑顔だったのを思い出す。貼り付けたような笑顔で、こちらを照らすように、にこにこ、にこにこと。どうしてあんなにサービス満点な笑顔をしたんだろう。彼の接客業たる賜物だと思っていたけど。
「なーにだ」
僕の両目が、彼女の手で塞がれた。透けて見える赤い血の色が見えない。何故か真っ暗だ。
「誰だ、なら分かるけどなにだって何?」
「私でしょ?」
彼女の生き生きとした声が聞こえる。手を離させると彼女の指の質感がした。
「うふふ」
彼女が微笑む。その時、部屋の扉をノックする音がした。覗いてみるとフロントマンがいる。彼とは扉越しで会話が行われた。
「何か私どもで、お役に立てることはありませんか」
「いえ、特には・・・ありがとうございます」
また彼女が僕の後ろに隠れている。サービスの良いホテルだなあと感心した後、フロントマンは立ち去っていった。もしかして定期的に聞きに来たりするんだろうか。ちょっと煩わしいな、と僕は思った。
「ねー」
彼女がいつの間にか僕の腕にぶらさがって、振り子のようにしている。何かを言いたいのだろう。
「僕くん」
「なんだよ、名前で呼んでよ」
「知らなーい。私、僕くんと初めて会ったから」
あれ?と僕は首を傾げる。僕の人生で行きずりの女性を連れて一泊するような大胆なことをして来ていない。突然訪れた恐怖と混乱の反動で、大胆な事をしてしまうというのはあるだろう。人間の心理としては妥当だが、僕はそんな人間ではない。彼女をナンパした記憶も、ここまで来ようとした記憶も、何もかもがない。僕は実家の部屋で震えていて、恐怖を紛らわすために都市伝説やUMAの記事を読みあさって、あの高校生の事を調べても何の手がかりが無いことに震えていたはずだ。彼女は、誰だろう。こんな可愛らしい彼女は。
「うふふ。あのね、僕くん。前に会った高校生のお話、聞かせて?」
何故だろう、彼女にその事を話した記憶がないのに、彼女は当然とばかりにその話を、事もあろうに僕の口から話せと言う。額から汗がしたたり落ちた。汗しか僕の体は自由ではない。瞬きも、この場から逃げることも、全てが僕の意志を無視して動けなくて、汗だけがたらりたらりと垂れていく。舌はからからなのに、勝手に僕は見たままの高校生の話をした。
「どうして高校生だと思ったの?」
「背丈、が。高くて」
「それだけで?」
「なんか高校生だと思ったんだ。彼がそう言ったのかもしれない」
超常現象に触れた時にひらめいた感覚や印象を、口に出すのはなんだか難しい。そう肌で感じたからとしか言えないのに、言葉にするとなんだか薄っぺらくてよくある感覚にまで格下げされる気がした。
「その子は、僕くんに何か言ったの」
「なにも。ただ僕をじっと見つめて、首を振っただけ」
その事を口に出してはならないような、ぞっと背筋が寒くなる気がしていた。ただの好奇心を持った信用ならない人物に、自分のすべてを語れと強要されているかのような。縦社会の歯車に押し込まれている気分がする。
「そうか。じゃあ何も言わなかったんだ」
「何も言わずに消えた、よ」
「そうかそうか。じゃあ僕くんも、なおさなきゃね。あの子は、またお話をしなきゃ」
彼女の声は男のような女のような、老いたような若いような機械的なような、全ての要素を詰め込んだ雑踏のような声だった。ただ一人の声なのに、その雑踏はざわざわと大きく、僕の耳に響いてくる。彼女が僕に近付いてきた。雑踏はうるさいほどに鼓膜を揺らすのに、僕はその雑踏から逃げたいのに、彼女は僕に音もなく近付いてくる。
彼女のほっそりとした指が、冷たい指が僕の頬を掴んだ。彼女の顔が目の前にある。彼女は可愛らしい顔立ちをしているが、どうしてだろう底知れぬ恐怖が僕の頭を発狂寸前に追い込んでいる。彼女の唇がほほえみの形になった。
「じゃあ、なおしてあげる。あの子は、偽物だから。まだね」
僕は少しだけ安心した。再び、フロントマンがノックしてくれたのを皮切りに、僕は扉を乱暴に開けると、彼にすがるように飛びついた。精神的な異常の気を感じたのか、ホテル側はそのまま宿泊を取り消しにしてくれ、料金の請求を取り消しにし、僕の実家に連絡までしてくれた。僕はもう安心していた。たくさんの人が、僕一人のために動いてくれている、その優しい社会に安堵していた。フロントマンがずっと僕につき従ってくれ、ようやくお礼を絞り出した時には慣れてますからと笑ってくれた。そんな大変な仕事なのに、と僕はもう一度礼を言う。なんで僕はここにいるのか、それは分からなかった。
原典:一行作家