異国からやってきた彼女の言葉がわかるのはクラスで僕1人だけだった
『****。**』
『『『********』』』
号令に合わせて、みんな席から立ち上がり、一礼して再び座る。
私も、それに合わせて同じ動作をする。
『**、********。**、**********……』
教壇に立つ、30代くらいの男性教師が、チョークと教科書を手にもって授業を始める。
……でも、何を言っているのかは、わからない。
だって私は、数日前にこの国にきたばかりだから。
母国語とは違う言葉で話されても、何も理解できるはずもない。そもそも、なんで学校に通わされることになっているのかも、よくわからない。普通は外国語学校とかに通わされるはずだと思うのに、父親が強く『この学校にいけ』っていうから、仕方なく通うことになったのだ。
「……ねぇ、君」
ふと、隣から私の母国語で声がかかる。
顔を向けてみれば、ごく平凡そうな風貌の男の子だ。
「『***……』話の内容、わかる? 僕、少しだけ翻訳できるけど」
片言だけれども、今はそれがとても心強い。一も二もなく、私はその話に飛びついた。
「お、お願いします……」
◆◇◆◇◆◇
確かに外国からの転入生がくるとは聞いていたけど、まさか日本語がわからないとは思わなかった……
自己紹介はカンペを見ながらやっていたけど、いざ授業が始まってみると、彼女の瞳に段々と光る粒が浮かんできていた。どう見ても言語の壁が立ちはだかっている。
……まぁ、彼女の母国語は、普通の高校生ならまず習わないからなぁ……
昔取った杵柄(厨二病の末路ともいう)が、こんなところで生かされることになるとはね。
意を決して、僕は彼女に話しかける。
「……『ハロー、ドゥ』」
バッ、と勢いよく彼女が振り向く。その表情は、色々と限界を迎えそうだった。
「えっと……『ファーシュテースト、ドゥ、デン、インハルト、デァ、ゲシヒト? イッヒ、カン、アバー、アイン、ビッシェン、アバーゼッツェン』
するとすぐさま、彼女が口を開く。
「『B, bitte』……」
その日から、僕のドイツ語特訓が始まった。
◆◇◆◇◆◇
明日の時間割を確認し、授業の進度から明日の範囲を大まかに割り出し、その範囲のページを教科書から探し出し、それを全力を以てドイツ語に翻訳する。
わからない単語は逐一検索し、埋めていく。どうしても翻訳がうまくいかない時は、最終手段としてグー◯ル先生に頼る。
僕の独語力は、せいぜい入門書を丸暗記したくらいだから、応用的なことは全然できない。けど、それでもなんとか食らいついている。
どうしてここまでするのかって? そんなもの決まっているじゃないか。
一目惚れしたからだよ。
そりゃあんな、肩くらいまで伸びたブロンドの髪を風に靡かせ、瑠璃の石のような深い色の碧眼で見つめられちゃ、世の男子高校生はイチコロですよ。二次元がそのまま三次元に現れたようなものだからね。クラスの男子の9割は見惚れてたと思う。
そんな彼女が、すがるような視線を僕に向けてくるのだ。オチない男の方が少ないと思う。
ただまぁ、最近のラノベじゃあるまいし、そもそも僕にそんな勇気はないので、『通訳』以上の何ものにもならないだろうなぁ……
自分で言ってて悲しくなりながら、手元に視線を戻していく。
◆◇◆◇◆◇
最近、隣の彼がとても気になる。
『Japanisch』がわからない私にとって、彼は救世主と言っても過言ではない存在だった。
異界に突然放り込まれた時に降り注いだ、一筋の光明のようだった。
彼は毎日、目の下に隈を作りながら、私のために教科書を翻訳して持ってきてくれる。
でも、私は彼に何もしてあげることができない。
どうすれば、いいんだろう……
◆◇◆◇◆◇
「それはあれだね、その子、君に惚れてるね」
「うぇっ!?」
日本人で、かつドイツ語が通じる叔父さんに相談してみると、そんな答えが返ってくる。まさかそんな、そんなことは……
「男子高校生ってね、普通は遊びか勉強か部活かに忙しくてね、身を削って尽くすなんてことはまずしないんだよ。実際おじさんもそうだったからね。それでも、その彼は君のために行動している。こういう時って、大体行動の動機は『惚れたから』なんだよね」
「…………」
「だから、君が勇気を出せば、トントン拍子に進むかもよ?」
◆◇◆◇◆◇
今日も彼女のために翻訳した教科書のデータを渡す。今日の時間割は、世界史化学数学体育英語だ。比較的独語翻訳しやすい範囲だったし、英語に至っては語系が同じなだけあって割と速攻で終わった。
いつもはそれで終わるのだが、今日ななぜか妙にソワソワしている……
「『Also das』……ホ、ホウカゴ、ジカン、アリ、マスカ?」
……まさか、カタコトの日本語で放課後の予定を聞かれるとは思わなかった。
え、これはもしかして、ある? ワンチャンある??
い、いやいやまさか、そんなわけないだろう。だって僕は平々凡々を地でいく上に、厨二病拗らせた残念野郎だぞ? 期待するな期待するな、ここはラノベじゃないラノベじゃない……
「……ダ、ダイジョウブ、デス」
母語なのにカタコトになってどうする。
そして放課後、彼女と落ち合う約束をした。
◆◇◆◇◆◇
放課後の部室棟。僕は一応将棋部に所属しているのだが、僕以外はみんな幽霊部員となっているため、実質将棋部の部室は僕専用になっている。
場所の指定を任されたため、僕はついうっかり将棋部の部室を選んでしまった。
畳3枚入ればいいくらいの、小さな部屋だ。
もっとムードのありそうなところを選べばよかった……っ!!
こんなところ、雰囲気のかけらもねぇ!!!
そんなこと言ったって今更どうしようもない。僕はただ、将棋盤に向かって正座しながら、彼女がくるのを待っていた。
そうして数分後、軽いノックと共に、扉が開く。
扉の隙間から、彼女が垣間見えた時、つい心臓が高鳴ってしまう。
部屋に入ってきた彼女は、後ろ手に何かを持っているのか、ずっとこちらを向いて下を見ている。
「…………」
「…………」
互いに無言のまま、しばらく時が過ぎる。
彼女は、しばらくソワソワとしていたが、意を決したのか後ろ手に持っていた何かを僕に押し付け、その勢いのまま飛び出ていってしまった。
何が起きたんだ……
放心しかけたが、ひとまず渡されたものをみると、それは小さな封筒だった。
中を開けてみると、そこにはびっしりとアルファベットの書かれた便箋が書かれていたので、とりあえず帰ってから読んでみることにする。
◆◇◆◇◆◇
帰宅した僕は真っ先に、独語単語帳とPCの翻訳サイトを用意し、便箋を読む。
案の定、わからない単語があったので、都度調べながら読み進めていくと……
『最初に逢ったあの日からずっと好きでした』
みたいなことが、便箋3枚いっぱいに書かれていた。
だめだこれは。破壊力がすごい。
しかも最後には日本語で『すきです』とまで書かれている。
……教科書を翻訳しながら、返事を考えなければ。
今日は、眠れる気がしなかった。
◆◇◆◇◆◇
……どんな顔をして会えばいいんだろう。
昨日は、思いの丈を散々に書き連ねた手紙を、彼に押し付けて飛んで帰ってしまった。
もう、マルクスにも勝るとも劣らない悪筆になっていただろう。
いくら思考を巡らせたところで、あと数分で彼は教室にやってくる。
できるだけ、いつも通り……いつも通り……
「……おはよう」
「ひゃっ!?」
後ろから声がかかって、つい跳ねてしまう。振り向けば当然、彼がいる。
「お、おはようございます……」
噛みそうになったけど、なんとか堪えた。
彼の表情を伺うも、あまり普段と変わらない気がする。強いていうなら、いつもよりも隈が濃いくらいか。
「これ、今日の範囲。確認してみて」
彼から手渡された紙の束は、まさに普段通りだった。
何か、昨日のことに関してないのか。何かいうこともないのか。
そんなふうに思いかけた時、彼が口を開く。
「えっと、その……」
◆◇◆◇◆◇
「『Also das』……昨日のあれ……あぁ、『Das gestern』」
ビクン! と、彼女の肩がはねる。
……意を決して、一晩中考え抜いたセリフを口に出す。
「Ich mag dich auch」
その瞬間、僕の腕の中は、ぬくもりといい匂いで満たされた。
クラス中がこっちに注目している気がしたけど、彼女はお構いなしに、唇を重ねてきた。