小太郎誕生
小太郎誕生
その朝、それはいつの間にかやって来た。
槙草を送り出した後、腰がすこし痛むかな?という程度の痛みが起こるようになったのだ。
「もしもし、歩美さん?美希です」美希は歩美に電話を掛けた。
「どうしたの?何かあった?」
「腰が時々痛むの」
「ふ〜ん、それは定期的に?」
「う〜ん、分かんないけど、長かったり短かったり・・・」
「そう、それは陣痛の走りね。まだ大丈夫だから今のうちにやれることをやっておくのよ」
「うん、大抵の準備はできてるわ」
「なら、ご飯を食べて、躰を綺麗にしておくの。二、三日はお風呂に入れないわよ」
「分かった」
「それから、痛みの感覚を計ってね。三十分くらいならまだ大丈夫、それ以上短くなったらすぐに電話しなさい」
「ありがとう」
「それから、出血や破水があったらすぐに病院に行くのよ。その時も私に電話するのを忘れないで」
「うん」
「とにかく、慌てないことね。落ち着いて行動するのよ」
「うん、また電話するね」美希は電話を切った。
もうすぐ赤ちゃんと対面できると思うとドキドキする。その前にこの痛みに耐えなければならないのだ。
槇草はまだ勤務中だ、やはり自分一人で産まなくてはならない。歩美に言われて覚悟はできていたが、少し心細い。
「さて、しのにご飯をあげよう、しばらく会えなくなるからね」美希は気持ちを入れ替える為に立ち上がった。
陣痛の間隔が三十分になった。痛みもそれに伴って大きくなる。
間隔がもう少し短くなったら歩美に電話をしよう。
間隔が二十分になった。美希は歩美に電話をする。
「もしもし、歩美さん?間隔が二十分になったわ」
「分かった、すぐ行く。病院に連絡して指示を仰いで。もしすぐ来るように言われたら、タクシーを呼んでおいてね」
「分かりました、待ってるわ」
十分程で歩美は来た。
「病院の先生は何て?」
「すぐ来るように言われたわ。まだ大丈夫だから焦らないようにって」
「タクシーは?」
「呼んだ。十五分で来るって言ってたわ」
「よし、ならまず火の始末と点検ね。ストーブを消して、いらないコンセントは全部抜いておく」
二人は手分けしてこの作業を行なった。
その時クラクションが鳴った。
「タクシー来たみたいね」美希が言った。
「最後に戸締りをしっかりして出発よ」歩美が応える。
玄関の鍵を掛けてから、美希は庭に廻った。
「しの、行ってくるね。お留守番頼んだわよ」
しのは首を傾げて、不思議そうに美希の後ろ姿を見送った。
タクシーの中で美希は不安だった、「ここで生まれたらどうしよう?」
「それは無い!」歩美にきっぱりと否定された。おかげで気持ちが軽くなった。
病院に着いたらすぐ、四階の産婦人科病棟に入院した。六人部屋の窓際のベッドだった。
「まだ分娩室に入るまで時間があるわ、じっとしてても始まらない、運動でもしてなさい」
怖い顔をした婦長さんにそう言われた。
「怖〜い!でも私の時にもいたわね、あんな看護婦さん」歩美が周りに聞こえないように言った。
「運動といってもねぇ〜、何をしたらいいんだろう?」美希が頭をひねる。
「仕方がない、階段でも登るか!」歩美が立ち上がった。
「そうね、そうしましょう!」
階段を一階から四階まで三往復した。結構キツイ。
「ちょっと休みましょう」歩美が言った。
「イタタタタタ・・・!」
「大丈夫?」
「痛みが強くなって来た」
「看護婦さんを呼ぶわ」
歩美が看護婦を呼びに行ったが、すぐに一人で戻って来る。
「『最後の陣痛は、とんでもなく痛いから、そうなったら教えてね』だって。そんなの私だって分かってるわよ!」
歩美が憤慨している、「ここの看護婦さん厳しいわ」
「だってどれもとんでもなく痛く思えるの。どれが最後の陣痛だか判断がつかないわ」美希が顔を顰めた。
「取り敢えず、もうしばらく様子を見よう」
「痛い!もう我慢できない!」しばらくすると、美希の顔が苦痛に歪んだ。
歩美がナースセンターに飛んで行く。看護婦がバタバタと入って来る。「あら、大変。分娩室まで歩ける?」
「む、無理です!」
「しっかりしなさい!この痛みが治まったらその間に移動するからね!いきんじゃダメよ!」
やがて少し痛みが薄らいだ。その事を看護婦に告げると、看護婦が言った。「さあ立って!行くわよ!」
美希はやっとの思いで立ち上がり、分娩室に向かう。「もう少しでこの苦しみともさよならできる、負けるもんか!」
少しでも気が緩んだら、発狂しそうだった。もう、誰にも頼らない。
分娩室には仲間先生が待っていた。
一月十五日、十六時二十九分。
元気な男の子だった。赤ん坊と一緒にすべての苦しみが出て行った。
「こんなのが入っていたのね。苦しいはずだわ」赤ん坊を見た最初の感想だった。
病室に戻ると歩美が待っていた。
「おめでとう!よく頑張ったわね」
「ありがとう」
「赤ちゃんは、後で看護婦さんが連れて来てくれるんだって」歩美が言った。
「あの子も苦しかったのね。あっという間に出て来てくれたわ」
「そう、良かった。どちらも命懸けだわ」
「もっとドラマみたいに感動するかと思ってた」
「あんなの嘘よ、男が勝手に美化しているんだわ」
「そうよねぇ、私、自分が冷たい人間じゃないかと心配したの」
「そんな事ないわ。世のお母さんたちはみんなそう思っているわよ」
「・・・私、お腹が空いちゃった」
「あはははは、なら心配ないわ。もうすぐ夕食の時間だから、それまで我慢してね」
「は〜い」
美希は、戦の終わった兵士のように、今はゆっくりと休みたかった・・・
一週間後、美希が赤ん坊とともに帰って来た。
今日は,槇草も付き添っている。会社から休みを貰ったのだ。
赤ん坊を布団に寝かせて一息ついた。
「お疲れ様、大変だったね」槇草が美希を労った。
「ううん、私のいない間寂しくなかった?」
「そりゃ寂しいさ。しのも元気が無かったよ」
「そう、早速しのに、ただいまを言わなくちゃ」
美希は庭に降りて、しのを呼んだ。身軽に降りれるのが不思議だった。
「しの、ただいま。お留守番ありがとね」美希は優しくしのを抱き上げて、頭を撫でた。
しのは嬉しそうに美希の顔を舐めている。
「しの、小太郎よ、よろしくね。起きたらあなたの紹介するわ」
美希は、寝ている赤ん坊をしのに見せた。
子供の名前は槇草と二人で決めていた。
あまり親の思いを込めない名前にしようと話し合った。
名前の重みは本人が付けていくものだ。
男の子なら、小さな長男で『小太郎』、女の子なら新春に生まれるので『春』にしようと決めた。
剛三はもっと強そうな名前にしろと言ったが、美希が頑として承知しなかった。
剛三は渋々引き下がった。槇草の両親は「二人で決めたのならそれが良い」と言ってくれた。
「この子、病院ではよく泣いたわ、同じ部屋の人に気の毒なくらい」
「そうかぁ、そんなに泣くのか?」
「時々看護婦さんが預かってくれたんだけど、そこでもよく泣いてた。部屋で寝てても声でわかるもの」
「ふ〜ん、そりゃ大変だ」
「これからはもっと大変になるって、歩美さんが言ってたわ。悠さんよろしくね」
「あ、ああ、任せておけ!」
槇草には、子育ての大変さなど想像もつかない。美希が自分よりも大人に見えてきた。
「さて、早速夕飯のお買い物に行かなくちゃ。悠さん、小太郎を頼んだわよ」
美希はちょっと笑って言った。
「わ、分かった・・・」
槇草は、少しだけ不安になった。




