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弥勒の拳  作者: 真桑瓜
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決着


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                   1



地下に降りると柔道場と剣道場が隣り合わせにあった。熊さんは剣道場の扉を開けた。

「お頼みも〜す、中村先生はおいでじゃろか?」

稽古をしていた署員たちは、一斉に熊さんの方を見た。

「おお、受付から聞いておる。鹿児島からわざわざ私を訪ねて来たそうだな?」上座に立って署員を指導していた中村が鷹揚に答える。ひょろりと背の高い五十絡みの男だった。

「はい、そうでごわす。中村先生のこつは、かごんまでん有名じゃっで」熊さんは言った。

「そうかそうか、私の名は鹿児島まで知れ渡っておるか」中村は満面の笑みを浮かべた。「みんな稽古止め、今から模範稽古を見せる」

中村は、熊さんに準備を促し、自分も面をつけた。

熊さんは防具を付け、道場の中央に出て中村と向き合った。署員は行儀良く壁際に座っている。

蹲踞をして立ち上がった時、熊さんは渋面を作った。「こりゃ弱か・・・」

幸い面を付けていたので気取られずに済んだだろう。

中村は腹を突き出して大袈裟に構えをとると、「どこからでも掛かって来なさい」と言った。

熊さんはわざと小手を外して面を打たせたり、面に行って胴を抜かせたりした。

暫く打ち合ってから徐ろに跪坐く。

「参りもした。とてもおいが敵う様なお人ではありもはん」

「いやいや、貴方もなかなか手強かった」中村は満足そうに頷いた。

熊さんは床に手をついて頭を下げる。「ありがとさげもす。厚かましかお願いでごわすが、しばらく稽古ばさせていただいてもようごわすか?」

「勿論だ、好きなだけ稽古をして行きなさい」中村はそう言って、署員に稽古の再開を促した。




                  2



柔道場では新任の柔道師範の紹介が行われていた。

犬神自身の短い挨拶があったあと、署長が言った。

「正式な就任式は後日全署員を集めて行いますが、本日はたまたま両師範がお揃いになりましたので、後学の為模範試合をして頂くことになりました。滅多にない機会なので、皆よく見ておくように」

約二十名ほどの署員の中に、五名ほど知らぬ顔が混じっているのに良一は気が付いた。



署員たちは壁際に座って控えた。

良一は犬神と向かい合って立つ。柔道着を着た犬神はまた一回り大きく見えた。

良一も小さい方ではないが、こうしてみると大人と子供ほどの体格差がある。

署長が前に出た。

「では、お願いいたします」

二人はゆっくりと礼をして睨み合う。

犬神は両手を大きく広げて一気に良一を包み込もうとする。凶暴なヒグマが人を襲う時に似ている。

良一は背筋を伸ばして右構えを取る。

ガッ!と二人は組み合った。瞬間良一が深く沈み込み、犬神を後方に投げ飛ばした。

巨体に似合わず犬神は敏捷に受け身をとって立ち上がる。なんのダメージも無い。

犬神はニヤリと笑って、今度は良一の奥襟を掴んだ。

良一が膝を抜こうとするが、そのまま吊り上げられた。凄い膂力と握力だ。

大外刈りで畳に叩きつけられる。コンクリートの地面ならこれで勝負は決まったかも知れない。

犬神はそのまま上四方固に入った。巨体を利した寝技である。

良一は犬神の躰の下でもがいたが、どうすることも出来ない。

柔道のルールならば、このままいけば一本負けである。

と、不意に犬神が寝技を解いて立ち上がった。良一に立つように促す。

押さえ込みでは、良一を再起不能にすることは出来ない、と考えたのであろう。

二人は再び組み合った。お互いに足技で牽制しながら畳の上を移動する、まるで社交ダンスでもしているようだ。

署員の並ぶ壁際に来た時、犬神が仕掛けた。さっと身を沈め良一の股に右手を差し込み良一を肩に担ぎ上げる。その一連の動作のまま、良一の躰を壁に向かって投げつけた。

署員が慌てて身を躱す。

良一は宙を飛び、背中から壁に激突し、頭から床に落ちて一瞬気を失った。

頭を振って立ち上がった良一は、口から血を流していたが誰も止める者はいなかった。

これでは公開処刑と変わりない。


良一は覚悟を決めたように、その場で膝を折り正座の姿勢を取った。

犬神は焦った、ここで参ったを言われては目的が果たせない。

だが、良一の闘気はいささかも衰えてはいなかった。否、返って燃え上がっているようにも見える。

犬神は訝った。その姿勢で戦うというのか?

咄嗟に、座った相手に仕掛ける技を思いつかなかった。

不気味な良一の行動が理解できず、思考が止まったままになった。




                  3





熊さんは、稽古をしながら柔道場の気配を窺った。さっき大きな物音が聞こえた様な気がしたからだ。トイレに行く振りをして剣道場を出た。その際、道場の入り口にある竹刀立てから、そっと木剣を抜き取った。

柔道場の入り口の扉には、ガラスの嵌った窓がある。これは剣道場も同様だ。

熊さんはその窓から中をのぞいて異様な光景を目撃した。

良一が巨漢の男の前に跪いている。「良一さんはなんばしよっとでごわそ。まさか土下座をする気じゃなかろか?」

それにしては様子がおかしい。巨漢の背中は何か躊躇している様だし、良一の顔には覇気が漲っていた。

「もう少し様子ば見てみんとわからん」熊さんはそのまま待つことにした。




                   4




犬神は自分が有利な立場にいるのは分かっていた。なにせ相手は座っているのだ、自由には動けまい。

だが、このまま何も出来ずに時間が経てば、後でなんと言われるか分からない。署員に不信感を抱かせるかもしれないのだ。

犬神は決心して、座ったままの良一の前襟を掴みに行った。


良一は目を閉じた。

前襟に犬神の手が触れた瞬間、両手でそれを包み込むようにして左に飛んだ。

良一の襟を掴んだまま、犬神の手が回転に巻き込まれて行く。

不気味な音を立てて犬神の手首が折れた。

甲高い犬神の叫び声が道場に響く。犬神は、手を押さえたまま蹲った。

右の手首があらぬ方向に曲がっていた。

良一は犬神の背後から近付き、右手で犬神の左襟を取る。

数秒後、犬神が口から泡を吹くのが見えた。


「誰か止めろっ!犬神が死んでしまう!」署長が叫んだ。

熊さんが道場に飛び込むのと、署員の間から五人の男達が飛び出して来るのが同時だった。

最初に飛び出して来た男に熊さんの木剣が疾る。男は鳩尾を突かれて吹っ飛んだ。他の男達の動きが止まる。

「良一さん、もうよかでっしょ!」熊さんは良一に声を掛けた。

良一は技を解いてゆっくりと立ち上がった。

「私は勝ったのか?」


「そいつを捕まえるんだ!」署長が命じた。

残りの四人が、良一と熊さんを取り囲む。他の署員は何が起こったのか分からないまま、あたふたと署長の命令に従った。


「それまでだっ!」その時、平助と黒田が道場に飛び込んで来た。

「だ、誰だっ!お前達は」署長は狼狽していた。が、その後から入って来た人物を見てさらに驚愕した。「戸渡様・・・」それは戸渡源蔵であった。「なぜここに!」

「署長、これまでだ。我々は起倒流から手を引かねばならん」源蔵は署長にそう言った。


「師匠、間に合いもしたな」熊さんがホッと胸を撫で下ろす。

「待たせて済まなかった。少々手こずってな」平助が済まなそうに言った。


「戸渡様、これはどう言う事です?」署長が源蔵に尋ねた。

「将軍から連絡があってな・・・」源蔵は少し悔しげに言った。「手を引かねば大変なことになる」

「師匠、将軍ちゅうのは誰のこっでごわすか?」

「ふむ、それは内緒じゃ」





                   5




良民は意識を取り戻す事なく、三日後に息を引き取った。

葬儀は神葬祭で行われ、良民は家の守り神となった。


帰還の日、平助と熊さんは奥都城に玉串を奉奠し、御霊を敬い別れを告げた。

高屋神社の階段下まで良一と静子が見送りに出た。

黒田と美佐恵は東京駅まで見送ると言う。

皆口数は少ないが、二人に対する感謝の念は、どれほど言葉にしても語り尽くせるものではないだろう。


発車の時刻が来て、平助と熊さんは夜行列車に乗り込んだ。座席に着き窓を開ける。

「無門先生、前田さん、本当に有難うございました」ホームで黒田が深々と頭を下げた。

「このご恩は一生忘れません」美佐恵も黒田と共に頭を下げる。

「お前さん方がいれば起倒流も安泰じゃ」

「黒田さぁ、今度きた時にゃ、きっとお相手していただきもすぞ」

「こちらこそ、望む所。楽しみにしております」

「無門先生、祖父の最後の花道を作って頂き有難うございました。どれほど喜んでおりますことか・・・」

「いや、大先生はご自分で花道を作られたのじゃよ」


ベルが鳴った。列車はゆっくりとホームを離れて行く。

「必ず、またお会い致します。それまでお元気で」黒田が手を振りながら叫んだ。並んだ美佐恵も手を降っている。

平助と熊さんも、窓から顔を出して手を振った。



「師匠、一件落着でごわすな」駅で買った弁当を広げながら、熊さんが言った。

「うぬ、ご苦労じゃった・・・ところでそれは?」平助が熊さんの荷物を見て言った。

「ああ、こいでごわすか?館山の質屋で手に入れたもんでごわす。おいが使うてやる事で供養になればち思うとりもす」

「そうか・・・」平助はそれ以上何も訊かなかった。

「そいよりも、将軍とは誰かお話しいただけもはんか?」

「ふむ、そうじゃな。今回世話になった熊さんになら話しても構うまい」そう言って平助は話し始めた。

「儂は両親の顔も良う覚えてはおらん。物心ついた時には母方の祖父母の家に預けられておった。その後父方の祖父母に引き取られ、武術を仕込まれたのじゃが・・・」


二十歳になった平助は徴兵検査を受けた。甲種合格で兵役に就く。

平助が沖縄を訪れ、初めて空手を学んだのは、兵役の明けた翌年の昭和三年であった。

除隊から第二次大戦の予備役召集まで、平助は自由を謳歌した。

武術の修行から人情がらみのヤクザの用心棒まで、気の向くままに全国を渡り歩いてきた。

妻を持つこともなく、気がつけば第二次世界大戦が始まっており、平助は応召によって特別剣術教官として北満国境警備の任についた。平助は三十六歳になっていた。

白兵戦では、抜刀隊隊長として何度も死線を掻い潜り、その功績によって陸軍戸山学校の教官を命じられる。

昭和二十年、終戦の年、平助は北九州にいた。本土決戦の為、北九州義勇隊に刀法の指導教官として服務していたのだ。

福岡県出身の陸軍大将杉山元に呼ばれたのは、終戦前夜であった。

それまで、雲の上の存在だった杉山大将に呼ばれた事を、平助は訝った。


「部屋に入ると、大将は儂を見詰めて言われた。『あなたのご両親は、国家の極秘活動中ロシアで亡くなった。これは私の指示で諜報活動を続行していた為である。私はあなたにお詫びしなければならない』とな。儂はこの時初めて両親の消息を知ったのじゃ。そして、大将は続けて仰られた。『今後あなたが死ぬまで、私が作った軍閥の地下組織から生活費その他必要経費の支給があるだろう。誠に虫の良い話であるがこれで許してもらいたい』そして、儂に向かって深々と頭を下げられたのじゃ。それから一月後の九月十二日、杉山大将は司令部で自決なされた」

「な、なんと、そげなこつが師匠の身に起こっておったとは・・・」

「もう、遠い昔のことじゃよ。じゃが、未だにこの地下組織は生きておる。将軍と呼ばれる人物が誰か、名は明かせぬが、その人物に今回の一件の後始末をお願いしておいた。もう二度と同じ過ちを繰り返さぬようにな」




列車はまた、夜中に見知らぬ駅に停車した。

平助は思う。人は死ぬ前が一番強いのではないか・・・と。

できることを少しづつ手放して行き、できないことを少しづつ手に入れて行く。

そして、全てを手放した時、初めて躰という拘束から心が自由になることが出来るのだ。

「死ぬのも悪くない・・・」

そこまで考えて、平助は目を瞑った。






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