榊原
榊原
最初にその気配を感じたのは、東の方角だった。
「織田・・・」榊原は東に向かって足を踏み出した。
数歩行ったところで、今度は西の方角で戦いの気配が起こった。「高木・・・」榊原は足を止めて両方の気配に耳を澄ませた。
「あの二人ならそうそう遅れは取るまい」榊原は思い直して鳥居を見上げた。「今なら母屋は手薄の筈だ」
石の階段に腰掛けて見張りを続けていた榊原は、急いで階段を駆け上った。
社務所の裏の母屋には、二つの部屋に明かりが灯っている。
「奥は年寄と女だな。とすると手前が髭面の男か」榊原はそう呟いて母屋の玄関に近付いた。
「待ちなさい!」社務所に隣接する道場の陰から声を掛けられて、榊原はギクッとして振り向いた。
そこには柔術の稽古着に白い鉢巻きを締めた、美しい女が立っていた。
「なんだ、女か」榊原はほくそ笑んで美佐恵の前に立つ。「俺と戦うつもりか?」
「一歩も中には入れません!」美佐恵が叫ぶ。
榊原は、いきなり美佐恵の奥襟を取った。その瞬間自分の躰が宙を舞ったのを感じた。
受け身を取って立ち上がる。「衣被か?・・・油断した」榊原は右の頬を歪めて笑う。
美佐恵は右半身に腰を落として構える。
榊原は慎重に間合いを詰めて行く。「今度はそうはいかん」
ダッと地を蹴って美佐恵の足元に沈み込むと、軽々と美佐恵を肩に担ぎ、地面に向けて叩きつけた。
背中から落とされて、美佐恵の顔が苦痛に歪む。
残忍な正体を露わにして、榊原が美佐恵に迫った。
「残念だが、急ぐのでな」榊原の踵が美佐恵の上に踏み下ろされようとしたその時。
ヒュッと音を立てて、石の礫が榊原の頬を掠めた。
「私が相手じゃ」
振り返ると、寝間着姿の老人が立っている。その後ろには中年の女も。
「お前は飯沼良民・・・」榊原は驚いた表情で良民を見た。
「美佐恵っ!」中年の女が倒れた美佐恵に駆け寄る。「大丈夫かい?」
「ええ、お母さん・・・」美佐恵は気丈に立ち上がる。
「二人共離れていろ」良民が言った。
美佐恵と母は、道場の壁際まで下がった。
「髭面の男は?」榊原が訊く。
「今頃、良一のところじゃ」良民が笑った。
「しまった!」榊原は唇を噛んだ。
「さあ、おとなしく観念せい」
「馬鹿を言え、こうなればせめてお前の首でも取っていかねば・・・」
榊原は腰を落としてジリジリと良民に迫る。油断は欠けらも無い。
良民は自然体で立っている。目は開いているのか瞑っているのか分からない。隙だらけの様にも見える。
だが、榊原は迂闊には動けなかった。格闘家の血が警鐘を鳴らす。
その時、後方で足音が聞こえた。しかし榊原は良民から目が離せない。
「平助さんか?」良民が訊いた。
「はい」
「手出しは無用」
平助は良民の姿に打たれた様に立ち止まった。「承知・・・」
榊原は、目の前の敵に集中することにした。もう何も考えない。
足をねじる様にジリジリと前進する。靴底が砂を噛む音が聞こえる。
しかし、良民との距離が一間を超えた時、躰が金縛りにあった様に動かなくなった。
「う、嘘だろ・・・」
頭は動けと言う、なのに躰は嫌だと拒否をする。「一体どうなっているのだ?これは俺の体じゃ無いのか・・・」
そこへ黒田が駆けつけてきた。「大先生!」
「しっ!・・黙って見ていよ」平助が黒田を制した。
榊原は動けない、汗だけが滝の様に流れてくる。
一分・・二分、そのまま時が止まった様だ。
やがて榊原の膝が笑い出した。一人でにガクガクと震える。もう・・立っていられない。
ガックリと膝をついて榊原が呻いた。
だが、良民は動かなかった。
「黒田っ!大先生をっ!」平助が叫ぶ。
黒田はハッとして、ようやく事態を飲み込んだ。
良民は立ったまま意識を失っていた・・・




