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弥勒の拳  作者: 真桑瓜
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館山署

                  

館山署




                   1



あれから熊さんは夜道を歩き、夜明け前に山の反対側にある街に降りた。

それからずっと歩き続け、昼前に館山の街に着いた。

熊さんが最初にした事は、館山署の偵察である。

ぐるっと署の周りを一周したが、鉄筋三階建ての建物は外から見ただけではどこに何があるか分からない。

ただ、かすかに竹刀の音が聞こえる。きっと署の中の道場で暇な署員が稽古をしているに違いない。

熊さんは一旦署を離れ街に出て質屋を探した。

駅裏の狭い路地の先に古い質屋を見つけた。いかにも、金に困った庶民が入りやすい場所にある。

立て付けの悪い木戸を開け、中に入る。狭い土間の先に低い式台があり、その上に算盤の乗った文机が置いてあったが、前には誰も座っていなかった。

「ごめん、どなたかおいでなさらんか!」熊さんは奥に向かって声をかけた。

しばらく待ったが返答がない。

「ごめ〜ん!」熊さんはさっきより大きな声で呼んでみた。人の動く気配がして、声が先に聞こえて来る。

「うお〜い、誰じゃ。古着じゃ金は貸せんぞ、今時古着を買う奴なぞおらんからな」

奥から出てきたのは、頭のハゲた爺さんだった。丸メガネを掛けて鼻の下にちょび髭を生やしている。

「そげんじゃなか。剣道の防具ば探しちょったいね」

「なんじゃ、お客かい」爺さんは熊さんの姿をジロジロ眺め回す。「そのまま防具を付ければ剣道ができそうな姿じゃな」

「おいはいつでんこん格好たい。それよか防具はなかじゃろか?」

「あるにはあるがかなり古い」

「そいでよか、みしちくれんね」

「分かった、ちょっと待っておれ」

爺さんは奥に引っ込んでいったが、今度はなかなか帰ってこない。ようやく戻って来た爺さんは、埃を被った古い防具袋を手に提げていた。

「これは昔、金に困った剣術家が置いていったものでな、当時の金で二万円貸してやった」

熊さんは中の防具を取りだして、仔細に点検した。「こいはなかなかよかもんじゃ、おまんさぁ足元を見たでごわそ」

「馬鹿を言え、今時誰が中古の防具なぞ買うかね。二万でも御の字じゃ、現にこうやって売れ残っておるじゃないか」

熊さんは、この防具を手放した剣術家の無念を、思わずにはいられなかった。

「よか、こいばおいに二万で譲らんね」

「何を言う、商売はどれだけ安く仕入れて、どれだけ高く売るかが基本じゃ。色もつけずに売られるか」

「業突く張りの爺さんじゃ。なら幾らならよかね?」

爺さんは片方の手を広げて見せた。

熊さんはチョキとパーを出した。

「う〜ん、四万五千」

「三万!」

爺さんは腕を組んでしばらく考えていた。

「分かった、三万五千で手を打とう!」

「そいでよか。じゃっどん竹刀もあったでごわそ?竹刀もつけんね」

「何、竹刀もか?お前さんなかなか商売人じゃな」

「なぁに、爺さんほどじゃなか」

「わははははははは・・・お前さんが息子ならこの店を継がせるのじゃがな」

「うひゃ〜、そりゃ御免こうむるたい」

こうして熊さんは中古の防具を手に入れて、警察署に舞戻ったのである。


それから熊さんの取った行動は大胆なものだった。

防具を担いでいきなり一階の受付に向かったのだ。

受付には若い女の警察官がいたが、熊さんの姿を見て目を丸くしていた。

「ごめん、おいは剣道の修行ばしちょるもんにごわす、ここに剣道の強か先生がおるっち聞いて、かごんまから訪ねて来たでごわすが、先生はおられんやろか?」熊さんは人懐っこい笑顔を受付の婦警に見せた。

彼女はしばらく口を開けたまま熊さんを見詰めていたが、ハッと気がついてようやく訊いた。

「名前はなんと言われます?」

「前田行蔵と言いもす」

「いえ、その剣道の強い先生の・・?」

「おまんさーは自分とこの剣道師範の名ば知らんとでごわすか?」

「あっ、えっと中村師範・・ですか?」

「おお、そうじゃ。その中村先生じゃ」

「中村師範なら今はおりません」

「いつ頃おいでになりますな?」

「夕方には参りますが」

「そりゃ良かった。是非ご教授ばお願いしたかとです」

「それならば、五時頃にまたおいでください。中村師範には伝えておきますから」

「ありがとうごわす。ではそん頃また来まっしょ」

熊さんは、目だけを素早く動かして壁に掛かった案内板を見た。

「道場は地下んごたるな」小さく呟いた。

外に出た熊さんはスーパーでパンを買い、近くを流れる平久里川に架かる橋の下で、休息をとる事にした。

「夕方まで良っと休んどかな」熊さんはコンクリートの護岸の上に、防具を枕にして横になった。



                   2



良一は、迎えのパトカーに乗って館山署に着いた。

運転していた警察官は玄関の車寄せにパトカーを着け、素早く後部座席のドアを開けた。

「先生、署長がお待ちです。ご案内致します」

「有難う」良一は短く答え車を降りた。

エレベーターで三階に上がり、左に折れて一番奥の署長室の前に立つ。

警察官はドアを二度ノックした。「署長、飯沼先生をお連れしました」

「入りなさい」中から署長の声がした。

「失礼します」警察官はドアを開け直立不動で敬礼をした。

彼は右に寄り、良一に道を開ける。良一は一歩中へ足を踏み入れて異様な光景を見た。

ソファに黒い巨岩が座っている。良一にはそう思えたのである。

「先生、お呼び立てして申し訳ありません。今日は是非ご紹介したい人物がございまして・・・」

巨岩がゆっくりと立ち上がった。まるで大魔神が立ち上がったようだった。

「犬神です」男は地獄から響いてくる様な声でそう言った。

「飯沼です」良一は犬神を見据えて言う。ここで萎縮したら終わりだ。

迎えの警察官が部屋から出て行った。

「先生まぁお座り下さい」署長が良一を促す。

良一は犬神の向かい側に腰を下ろした。

「犬神君、飯沼先生は起倒流の達人だ。機会があったら教えてもらうと良い」署長は意味ありげに犬神に言った。

「是非そう願いたいものですな」

犬神は良一を見詰めて訊いた。「ところで、起倒流は柔道の創世期に深い関わりがあったそうですな」

「うむ、嘉納治五郎先生が、天神真楊流と共に起倒流を研究されて柔道を起こしたと聞いておるが」良一は注意深く答える。

「今の柔道は進歩しています。西洋のトレーニングを取り入れて誰でも強くなれる」

「筋力はやがて落ちるものだ。その様な不安定なものに命をかける事は出来ない」

「ならば、何故柔術は柔道に駆逐されたのでしょうか?」犬神が不敵な質問を発した。

「おいおい、犬神君。それは穏やかでは無いぞ」署長が慌てて口を挟む。

「構いませんよ」良一が署長を手で制してから、犬神に答えた。「それは、日本人が大切なものを惜しげも無く捨てたからだ」

「捨てられる様な価値しかなかったのではありませんか?」

「日本人は戦争に負けて矜持も捨ててしまったのだ」

「どうやってそれを証明できますか?」

良一は、犬神の詭弁に乗せられていることに気付きながら言わずには居れなかった。

「やってみれば分かる事だ」

「では、今からでもお願いできますか?」

「望みとあらば」

犬神はニヤリと笑った。



                  3



熊さんは館山署の前の茂みに潜んで、玄関を監視していた。

四時半ごろ玄関についた黒塗りの車から、巨漢の男が降りて来るのが見えた。この男は危険なオーラを纏っていた。

その十分後、良一がパトカーから降りて来た。

「さて、行こうか」熊さんは防具を担いで立ち上がった。


熊さんは昼間会った受付の婦警に笑いかけた。「お言葉に甘えて参上致しもした」

「ああ、昼間の・・・」婦警はニッコリ笑った。「中村師範にはお話ししております。地下の道場にお行きください」

「あいがとさんにごわす」熊さんは婦警に頭を下げて、地下へと階段を降りて行った。







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