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弥勒の拳  作者: 真桑瓜
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観音寺美希



観音寺美希


次の日、平助はさっさと道場の床板を修理してしまった。

「師匠、俺が勝つまで直さない筈じゃ・・・?」

「誰がそんなことを言った?それじゃいつまでたっても直らんではないか、不便で仕方がないわい」稽古に来た槇草に平助が言った。

「対篠塚用の稽古はしないのですか?」

「せん、慌ててそんな事をして何になる?」

「でもこのままでは勝てません」

「では、負けるが良い」

「そんな・・・」

「お前はすでに負けているではないか?」

「だから、今度こそ!」

「そうではない、お前はすでに篠塚に呑まれておると言っておるのだ」

「で、ですが・・・」槇草は口籠った。


「こんにちは、無門先生はご在宅でしょうか?」その時玄関から訪う声が聞こえて来た。

「は〜い、どなたですか?」槇草は、助かったとばかり玄関に飛んで行った。

「こんにちは、先日は父が大変失礼を致しました」

「あっ、あなたは・・・」

「観音寺剛三の娘、美希です」

「ああ、美希さんか、上がるが良い」奥から平助が言った。

「お邪魔致します」

今日の美希は和服ではない。真っ白いシャツにグレーのスラックスというOLの様な出で立ちだった。昨日の楚々とした感じとは違い、快活な印象を受ける。

「無門先生、こんにちは」美希は道場の床に両手をついて挨拶をした。

「先日は見違えましたぞ。暫く会わぬ間に美くしゅうなられた」

「ありがとうございます、先生にそう言って頂くと、とても嬉しい」

そう言って美希は、風呂敷包みを解いた。

「これ、昨日のお詫びにおはぎを作ってまいりましたの。お口に合うかわかりませんが」

「なにを詫びる事がある。じゃがおはぎは儂の好物じゃ、有難く頂くとしよう。これ、槇草お茶を入れて参れ」

「お茶は入れますが、僕は甘いものは苦手です」

「何を言っておる、せっかく美希さんが手作りしてくれたのじゃぞ」

「お茶は私が入れますわ。槇草さんとおっしゃるのね。よかったら一つだけ食べてみてくださいな」

「はぁ・・・」槇草は、平助と美希を交互に見た。「師匠、こちらは剛道館の娘さんという事ですが?」

「何か不都合か?」

「いえ、でも剛道館とは敵対しているのではないのですか?」

「儂にそのつもりは無いが」

「でも昨日は・・・」

「父が無門先生に逆恨みをしているのです」美希が言った。

「逆恨み?」

「ああ、あれは儂がボクシング興行の飛び入りに出た時の事じゃ。美希さんの父上も飛び入りを狙っておったのよ。外人のボクサーを倒して空手の強さを証明しようとしておったのじゃ」

「それで師匠は勝ったのですか?」

「運良くな」

「凄い!」

「儂には儂の事情があったのじゃよ。それを儂が横取りしたと大層怒ってな。帰り道で待ち伏せておった」

「そこで父は先生に負けました」美希が話を引き取った。「後日、先生は父を見舞ってくださいました。私はその時初めて先生にお会いしてそのお人柄に触れ、先生のご事情もお聞きしました。私は父の狭量さを責めましたが父は納得してくれませんでした」

「そうであったな懐かしい思い出よ。まぁ、思い出話はこの辺にしておはぎを頂こうか」

「私、お茶を入れてきます、槇草さんも食べてくださいね」

美希は、道場に付属している小さな台所に入っていった。


「父と篠塚は何としても槇草さんを倒すつもりです」お茶を出しながら美希が言った。

「ほう、槇草など眼中に無かったのではないかな?」

「先生の自信ありげな態度に不安になったのですわ」

「少し薬が効き過ぎた様じゃな」

「師匠、俺は勝てるのでしょうか?」槇草が訊いた。

「勝算が無くてあんな事が言えるか」

「しかし・・・」

「槇草さん、どうぞおはぎを召し上がって下さいな」

「はあ・・・」槇草は仕方なく一口食べた。「う、美味い!」

「そう、良かった。では私は帰ります、槇草さん頑張って下さい」


美希が帰った後槇草は平助に訴えた。

「師匠俺やっぱり不安です、篠塚はもっと稽古をしているような気がして」

「槇草、お前は考え違いをしておる。道場に来て武術の真似事をしている時だけが稽古じゃなかろう?」

「え、違うのですか?」

「違うな、稽古は一日中行住座臥全てが稽古じゃ」

「確かに理屈ではそうですが・・・」

「そう、これは理屈だ。理屈は本気で実践しようとしないから屁理屈になるのじゃよ。道場に来ている特別な時間だけを稽古とするか、二十四時間を稽古とするかの違いは大きいぞ」


槇草は平助の真意を測り兼ねていた。





稽古


とりあえず槇草は、基本と型を超スローモーションでやることにした。

平助が「稽古とは自分を知ることだ」と言ったからだ。

「それではあまりに抽象的で分かりません」と文句を言ったら、「今自分がやっていることに気付くことじゃ」と言われた。「あとは自分で考えろ」とも。

それで槇草が考えた方法が、超スローの稽古法なのだ。

どういうふうにやるかというと、型をやりながら「今、右足に重心が移動した」とか「今、後ろ足の踵が床から離れた」とか、自分の動きを実況中継するのだ。人が見たら笑うだろうが、幸い弟子は槇草一人だけだ。

それから徐々に日常の動作にも実況中継を移行して行った。

例えば、体を洗う時、今どこを洗っているかを確認する。それこそ指の一本一本まで丁寧に洗いながら、「今、右手の親指を洗っている」「今、右足のスネを洗っている」とか。

歩く時は、今どちらの足が地面に着いたのかを感じる、「右・左・右・左・・・」と頭の中で繰り返す。

なるほど、これなら一日中稽古をすることができる。どういう効果が期待できるのかはこの際無視した。平助の言葉通りにやってみるつもりなのだ。

はじめは雑念が邪魔をして上手くいかなかったが、少しずつ集中できるようになった。

ゆっくり動くと床を蹴らずに動けることも確認できた、これは居着きを消す効果があるだろう。

空手だけではない、剣術の素振りもゆっくりやると、躰の中の感覚が感じやすい。

力を入れて早くやると、この感覚が消える。

槇草は、この稽古法にのめり込んでいった。単純な性格が役に立った。

暫くすると、躰の状態だけでなく心の状態も観察できるようになった。

「今、怒っている」「今、欲が出た」「今、喜んでいる」「今、悲しんでいる」等々。

自分の心の状態を確認できると、心の波が静まって行く気がする。

そうこうしていくうちに、だんだんと失敗が少なくなっていく。

物を落とすことが少なくなった、どこかに足の小指をぶつけることも減った。

「量より質」という言葉の意味も納得できた。

一度平助にこの事を話すと、「そうか」とだけ言われた。良いとも悪いとも言わない。

平助に否定されなかったということは、あながち間違いではないということだ、と自分に言い聞かせた。


武道大会まであと五ヶ月。




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