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弥勒の拳  作者: 真桑瓜
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堀 忍


堀 忍



1



堀忍は、女学校に通学するため遠賀川の駅から列車に乗った。

車内を見回して目的の人を探す。

「あっ、いた!」

その人は、前方の扉に凭れて立っていた。

黒い学生服に下駄履き、擦り切れた学帽を被って過ぎ去る景色を眺めていた。

忍は、ゆっくりとその人に近づいた。気付かれたら消えてしまいそうだったからである。

「おはようございます」忍は、そっと声をかけた。

男は振り向いて忍を認めたが、何の反応も示さない。

「この前は、どうもありがとうございました」忍は、深々と頭を下げた。

三日前、忍は折尾の駅で人相の悪い男達に絡まれている所を、松尾に助けて貰ったのだ。

「ん、何だったかな?」

「お忘れですか、先日危ないところを救っていただきました」

「ああ、あの時の」

忍は、にっこり笑って頷いた。「本当に、ありがとう」

「いや、礼には及ばない、俺が勝手にやったことだ」男は素っ気無く言った。

「でも、私は助かりました」

「それはよかった・・・」男はそれきり黙ってしまった。

忍は、思い切って切り出した。

「よろしかったら、今度お付き合い願えませんか?改めてお礼がしたいのです」

「俺に・・・?」

「はい」

「俺は、喧嘩ばかりしている不良学生だよ、警察にもマークされている」

「そんなことは関係ありません、特に、私のような川筋の女には・・・それよりも、お付き合い頂けるのですか、頂けないのですか?」忍は、少し焦れて男に問うた。

男は、じっと忍を見詰めてから言った。

「俺の名は松尾という・・・今度の日曜日なら空いている」

「堀忍です、では、十時に遠賀川の駅で」

忍は、松尾に軽く会釈して、次の駅で他の女学生達と一緒に降りて行った。



2


当日、忍は改札の外で待っていた。

松尾は、十時少し前の列車からホームに降りてきた。

「おはようございます、今日は無理を言ってすみません」忍は、薄く化粧をした顔を赤くして頭を下げる。

「今日は、言葉に甘えてやって来た。俺はどうすればいい?」

「では、川を見に行きませんか?」

「任せる」

松尾は、いつもの学生服姿。忍は真っ白いブラウスに、紺の膝丈のスカート。長い髪を後ろで束ね、赤いリボンで括っている。何と無くチグハグな二人である。


駅を出て右に行くと、先の方に堤防が見えた。そのため、川は全く見えない。

堤防に続く階段を上る。階段を登り切ると、眼下に川が見えた。

「いつも列車の中で思っていたんだが、この川はどうしてこんなに黒いのだ?」

松尾が水面を見つめて忍に訊いた。

「筑豊炭田の所為です・・・」忍は答えた。

「炭田の・・・?」

「石炭を、洗っているのです」

「この川で、石炭を洗うのか?」

「はい。その後、川ひらたという船で芦屋港や若松港に運んで行きます」

「詳しいな」

「父が、筑豊炭田の経営に携わっているので」

「重役か?」

「はい、私はそのことを恥じています」

「何故恥じる?」

「昔は、鮭が遡上するくらい綺麗な川だったのです。でも今は・・・」

「それは、お父さんだけの所為ではない。世の中が求めているのだ。みんな、自分が便利になるのなら、川のことなどどうでもいいのだろう」

「それは・・・」

「実際、今日俺が乗ってきた列車だって、石炭で走っているからな」

忍は、軽く唇を噛んだ。

「君は、この川を俺に見せたかったのか?」

「そうではありません、私の家がこの近くなのです」忍は、気を取り直して、歩き出した。

「あそこに見えるのが、私の家です」忍が、白壁に囲まれた豪邸を指した。

「石炭で建てた家の壁が真っ白とは、皮肉だな」

松尾は、忍の気持ちを思いやることをしなかった。忍の甘えた思考が気に入らなかったからだ。

忍は黙って、玄関まで松尾を誘った。奥に声をかけると腰の曲がった老婆が出てきた。

「おかえりなさいまし、お嬢様」老婆は、忍に向かって、慇懃にお辞儀をした。

「ただいま、ウメ。こちらは松尾さん、九州歯科医専の学生さんよ」

ウメは松尾に頭を下げた。

「今日は、両親が所用で留守なの。ウメに手伝ってもらって、私が手料理を作りました。食べて行って下さいね、お料理には自信があるのよ」

忍は、出来るだけ快活に言った。


忍の手料理は、美味かった。

松尾は料理を十分に堪能した。それからは忍の持ってきたアルバムを見たり、数学の質問に答えたりして過ごした。

松尾にとっては、穏やかだが退屈な時間には違いなかった。



帰りに忍は、松尾を遠賀川の駅まで送って行った。

「今日は、ありがとうございました、とっても楽しかった」

「料理、美味かったよ。だが、俺とはもう関わらないほうがいい」

「どうして・・・?」

「今にわかるよ・・・じゃあな、サヨナラ」

松尾は、改札の駅員に切符を渡しながら、少しだけ忍を振り返った。


それから間もなく、松尾の姿は鹿児島本線から消えた。









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