約束
約束
1
笹野五郎との戦いの傷もあらかた癒え、平助が沖縄から帰ってきた。まだびっこを引いているが、杖を使って歩く事はできる。
昼、槇草がやって来た。
槇草は、昨夜博多駅まで平助を迎えに行った。平助が飛行機を嫌ったからだ。
「槇草、昨日は世話になったな」平助は槇草に礼を言った。
「師匠、他人行儀なことは言いっこなしですよ、それよりも黒田君が山を降りたそうですね?」
「ああ、住職から連絡があった、そのうちここへ姿を現す筈だ」
「いよいよです」
「油断するでないぞ」
「はい、師匠」
「無門先生、ご無沙汰しておりました」黒田が妙心館に現れたのは、それから三日後だった。
「お怪我は大丈夫ですか?」
「大事無い、多少不便じゃがな」平助は杖を示して言った。
「もっと早くお伺いするべきところ、遅くなりまして申し訳ありません」
「何のことがあろうか」平助は右手を顔の前で降りながら、踏み台を持ち出して来て腰掛けた。「すまんな、失礼するよ、この方が楽じゃでな」
黒田は道場の床に跪いた。
「実家の両親と会ってきました、もう何年も連絡しておりませんでしたから」
「喜ばれたであろう」
「はい、父も母も『見違えた』と言ってくれました」
「さもあろう、儂でさえ見違えたよ。本当に良い顔になった」
「有難うございます。弥勒寺での経験は、私にとって掛け替えの無いものになりました」
「そうか、結果はいずれ出るじゃろう。それが一年後か、十年先になるかは分からぬがの」
「はい、先生のお陰です」黒田は道場の床に手をついて、深々と頭を下げた。
「もう良い、それより槇草が待っておるぞ」
「はい、そのつもりで伺いました」
「いつが望みじゃ」
「いつなりと」
「そうか、では次の日曜正午としよう」
「分かりました」
黒田は神棚と平助に礼をして帰って行った。
2
「遅いな・・・」槇草が呟いた。
「そう急くでない。正午までにはまだ間がある」
「すみません、なんだか恋人を待っている気分です」
「ごめんください」
槇草が玄関に出ると、黒田はすでに稽古着に袴をつけて玄関に立っていた。
「どうぞお上りください」
平助が黒田の前に立った。今日は、もう杖は突いていない。
「黒田君、用意は良いかね?」
「はい」
「立会人は儂一人じゃ。良いな?」
「はい、宜しくお願い致します」
槇草と黒田は道場の中央で座礼を交わし立ち上がる。
神棚の前に立った平助が厳かに開始を宣言した。
戦いは静かに始まった。
槇草は黒田の、黒田は槇草の気を全身で痛いほど感じていた。
黒田は右前に構え、両腕を体側から少し浮かせた。
槇草は右前屈立ちで、左右の拳を正中に置いた。
槇草がじりじりと間合いを詰める。
黒田は槇草よりやや遅い速度で下がった。
間合いがゆっくりと縮まる。
あと一寸、間合を詰めれば槇草の突きの射程に入る。
それを見越したように、黒田が前に出た。
その瞬間、槇草の右拳が槍のように伸びた。
黒田は右に転移し、槇草の拳を引き込んだ。
槇草は、拳が絡め取られる寸前に自ら跳んだ。少しでも遅れていれば手首の骨は折れていたに違いない。受け身を取り、音も無く立ち上がる。
間髪を入れず黒田が懐に飛び込んだ。
槇草の躰は宙を舞い、落ちた。
すかさず黒田の両腕が槇草の右腕に絡みつく。
槇草は咄嗟に床を蹴り、態勢を入れ替える。
上になった槇草は、残った左の拳で黒田の右の頬骨を打つ。
黒田は槇草の腕を離し、身を捩って立ち上がった。
それを追うように、槇草の蹴りが腹に炸裂した。
黒田は背中から壁に激突し、そのまま前に崩折れた。
槇草が大技で勝負に出た。足背での上段回し蹴り。
その瞬間黒田は身を沈め、蹴りの下を掻い潜り槇草の背後を取った。稽古着の後ろ襟を取り一気に引き落とす。
槇草は両掌で後頭部を庇ったが、一瞬脳震盪を起こした。
その隙に黒田は槇草に馬乗りになり、逆十字締めを極めた。
黒田は十分に槇草を引きつけた。親指の付け根が槇草の頸動脈に食い込む。
槇草は負けを悟った。こうまで見事に決められては成す術が無い。
血流は止められ、意識が次第に遠ざかる・・・・・。
『槇草!お前は俺が倒すのだ、負ける事は許さん!』
頭の中で声がした。
「だ、誰だ・・・俺を呼ぶのは?・・・ああ、篠塚さんか」
槇草はニッコリと笑った。
黒田は訝った。技は完璧に決まった筈なのに、槇草が笑っている。
もう一度確実に技を極めようと一瞬手を緩めた。
その瞬間、槇草は黒田の肋骨の隙間に一本拳を叩き込んだ。
黒田が呻きながら槇草の左脇に転がる。今度は槇草が上になった。
必殺の正拳が黒田の鼻先に迫る。黒田は辛うじて身を捻り槇草の攻撃を躱す。
二人は互いの道着を掴みゴロゴロと床の上を転がった。
転がりながら額と額をぶつけ合う。額は割れ鼻からは血が噴き出す。何度めかの激突の後、二人は動かなくなった。道着は血で真っ赤に染まっていた。
平助が二人に歩み寄る。「それまで、痛み分けじゃ」静かに宣言した。
「俺の負けでした・・あの声が無ければ」手当の後、槇草は正直に言った。
「いえ、あの技を返されたのではどうしようもありません。僕の完敗です」
黒田の顔は清々しかった。悔しさは微塵も無い。
「これで、心置き無く旅立てます」
翌日、黒田は博多駅から東京に向けて旅立って行った。
懐には、平助の飯沼良民に当てた書状を持って・・・。




