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弥勒の拳  作者: 真桑瓜
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沖縄


沖縄


「師匠、湯加減はいかがですか?」槇草は焚き口に薪を焼べながら、湯船に浸かる平助に聞いた。

「ああ、いい湯加減じゃよ」

槇草はあの日、その場で平助の弟子になったのだ。初めての稽古の後、槇草は平助の為に風呂を沸かした。

「ところで、君は沖縄に行ったことがあるかな?」平助がのんびりと訊いて来た。

「いいえありません」

「儂は戦前に行ったことがある。空手を習得するためにな」平助は昔を懐かしむように言った。「これも月謝のうちじゃ。よければ聞いておけ」

そして平助は、徐に語り始めた。

「空手が沖縄から正式に日本に紹介されたのは、大正になってからじゃ」

槇草には意外だった。もっと古いと思っていたからだ。

「講道館の嘉納治五郎先生が紹介されたのじゃ」これも槇草には意外だった。小説で読んだ姿三四郎では空手は敵役だったからだ。

「だから初めは柔道関係者が多く修行をしたものじゃ」平助は続けた。「のちに剣道関係者が空手をやりだした、間合いをとっての攻防が剣道の人間にはやり易かったのじゃろう、自由組手も試合形式も剣道を模したものじゃ」

「その頃沖縄の空手には『型』しかなかった。道場も無く、庭や二畳程の隠し部屋で稽古をしておったな。腕に覚えのある者は街の盛り場に出没し、強そうな奴を見つけて掛け試しをしておった」

「師匠、掛け試しってなんですか?」槇草が聞いた。

「辻試合いだ、負ければ相手の股を潜る事になっておった。これは武術家にとっては屈辱じゃな。儂は武術の心得があったから、なんとか股を潜らずに済んだ」

「型しかないのに強くなれるのですか?」槇草はまた平助に尋ねた。

「型に古人の意思、具体的に言えば“体捌きの理”がまだ残っていたからだろう」

「その時、引き分けて仲良くなった奴がいた、比嘉幸長という奴で酒がめっぽう強かった」

「そいつと酒場に行った時の事じゃった。沖縄の人は陽気でな、次々と舞台に出ては踊り出す」

「その中に空手の格好をして巧みに踊る爺さんがいた。目がとろんとしておって、最初はアル中かと思ったもんじゃ」平助は楽しそうに笑った、当時を思い出しているのだろう。

「だがそうではなかった、比嘉が言うにはわざと目の焦点を暈しているのだそうじゃ。そこにいる全員に、自分が見られていると思わせるテクニックなんじゃと」

「これにはゾッとしたな、沖縄人の強さはここにあると思った」平助が湯船から上がる音がした。

「少しのぼせた。話はこれで終いじゃ」

「師匠、お背中を流します!」

槇草は、平助の背中を流すために風呂場に回った。



篠塚


「頼もう!」

入門して一年が過ぎた頃、玄関先で男の声がした。

槇草は稽古を中断して玄関に向かった。平助が留守の間は、道場で一人稽古をするのが槇草の日課だった。

「はい、どなたですか?」そう言ってハッとした。槇草には見覚えのある顔だったのだ。

「剛道館の篠塚というものだが、無門先生はご在宅か?」

男は、まだ槇草に気が付いていない。確か師範代だと言っていた。

「生憎、先生はお出かけですが、ご用件は?」玄関に膝を折って座り、槇草は尋ねた。

「白帯では話にならん、戻られるまで待たせてもらおう」篠塚はさっさと靴を脱ぎ始めた。

「いえ、ここ一週間ほどお戻りではありません、明日には戻られると思いますので今日のところはお引き取り下さい」

「おや?どこかで見た顔だが・・・」篠塚は槇草を見て怪訝な顔をした。

「思い出したぞ!うちに入門希望で来た奴だな」篠塚はニヤリと笑った。

「そうか、ここに入門したのか。お前は賢明なやつだな、うちだったら続くまいよ」篠塚が嘯いた。

「どうぞ、お引き取りを!」槇草は、上目遣いに篠塚を睨んだ。

「袖振り合うも他生の縁、一つ稽古をつけてやろう」篠塚は横柄にそう言って道場に足を踏み入れた。

「他流試合は禁じられております、お帰りください!」

「試合ではない、稽古をつけてやろうというのだ、有り難く思え」

篠塚は道場の中央に立ち悠然と構えた。「いつでもいいぞ、掛かってこい!」

槇草は冷静さを失った。篠塚の前に立ち、いきなり間合いを詰めた。

「弱い!」篠塚が叫ぶ。

「なにっ!」

槇草は逆上し、滅茶苦茶に拳を突き出した。

「もらった!」篠塚の掌底が槇草の顎を捉えた。

槇草が後頭部から床に落ちた時、篠塚の右踵が槇草の右耳を掠めて床板を踏み破った。

「手加減はしておいた。やはりお前にはこの道場がお似合いだ。あはははははは」

意識と共に、篠塚の笑い声も遠ざかる。

槇草は、虚ろな目で天井を見つめながら「床の修理はどうしよう」と思った・・・こんな時に。






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