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弥勒の拳  作者: 真桑瓜
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師走



師走



平助のもとに篠塚が襲われたという連絡が入ったのは、まだ朝も暗い内であった。

ただ、篠塚の怪我は数針縫いはしたが大した事はなく、近いうちに完治するだろうということだった。

相手の黒人の顎は粉々に砕けていたらしい。

すぐに病院で手当てを受けたが、ボクシング練習中の事故として処理されている。

退院したらすぐに帰国させられるそうだ。

このことがあって松尾組と豊嶋組からの圧力が強まり、篠塚に恨みを持つ者も動きが取れなくなっているという。しばらくは篠塚に危険はない。

平助は、ホッと胸をなでおろした。

以前なら人の事でこんなに心配することはなかっただろう。やはり耄碌したのだろうか・・・

ここまで考えて、平助は思考を断ち切った。「生老病死は人の常じゃでな」



「師匠、どうしたのですか?ボ〜ッとしちゃって。もうすぐ鯨津さんが来る頃ですよ」槇草は、虚な目で宙を睨んでいる平助に声をかけた。鯨津は、槇草の職場の嘗ての上司で妙心館の先輩でもある。

「おっ、そうか、もうそんな時刻か?」

十時を少し回っている。その時、玄関から野太い声がした。

「おはようございます、鯨津です」

「来たか。上がれ上がれ」平助は、奥から鯨津に声をかけた。

「先生ご無沙汰しております」鯨津は居室の入口で手をついて挨拶をした。

「おお、久しぶりだなあ、今は何をしておる」

「はい、市内の私立大学の学生寮で、寮長をしております」

「ほう、そうか」

「また、是非にと請われて空手部の指導もしております。先生の許しも得ず申し訳ありません」鯨津は頭を下げた。

「なあに、構わんよ。して奥方は元気かの?」

「はい、おかげさまで元気にしております」

「そうか、それは何よりじゃ。まあ肩苦しい挨拶はそのくらいにして座れ、今日の主役は槇草じゃ」

「はい、ではお言葉に甘えて」鯨津は小さな卓袱台の前に胡座をかいた。

「鯨津さん。今日はわざわざおいで頂きありがとうございます」槇草が改めて挨拶をした。

「いやいや、先生にもご挨拶したかったし、ちょうどいい機会だった」鯨津は鷹揚に答えた。

「この度は仲人を引き受けてくださり、感謝致しております」

「なぁに、俺も初めてで何をしたら良いのか分からんが、段取りをするのは得意だからな」と、鯨津は笑った。

「空手部設立の時はお世話になりました」

槇草が職場で空手部を立ち上げた時、社といろいろ交渉してくれたのは鯨津だった。

「あれはうまくいったな」鯨津はカラカラと笑った、「それで、日取りはいつにする?」

「来年の10月4日が大安なので」槇草が答える。

「うん、式場は?」

「住吉神社を予定しております」

「それは良い、あそこの神主は儂も良く知っておるで、気を入れて祝詞をあげるように言っておこう」平助は笑いながら言った。

「ありがとうございます、よろしくお願い致します」

「ところで美希さんはどうしておる?」平助が訊いた。

「はい、この近くで新居探しに奔走しております。なにせ俺の給料で住めるところは限られますから」

「美希さんならしっかりしておるで、大丈夫じゃろう」

「俺に経済観念が無いから、苦労をかけております」

「儂が言うのもなんじゃが、互いに足りないところを補い合うのが夫婦じゃろう」

「そう言って頂くと気が楽になります」槇草が照れたように頭を掻いた。

「先生は居合をご披露なさるとか」鯨津が話題を変えた。

「うむ、人前でやるのは何年ぶりじゃろう?」

「久しぶりに先生の技を拝見できます、今から楽しみにしておりますよ」

「ははは、せいぜい楽しみにしておいてくれ・・・」

それから鯨津は槇草と式までの大まかな段取りを決め、たわいのない世間話をして昼前には二人とも帰って行った。



昼過ぎ、弥勒寺の住職から電話があった。

「もしもし慈栄です、ご無沙汰しております」

「おお、慈栄さんか、こちらこそご無沙汰じゃ。黒田を頼みっぱなしですまん事です」

「いいえ、黒田さんなら良くやってくれていますよ、お寺も助かっています」

「寺の面々は黒田に慣れたかの?」

「はい、よっちゃんは意識しすぎてダメみたいですが」慈栄はコロコロと笑った。

「どうじゃ、黒田の心境に変化はあったか?」

「そうですねぇ、近頃は以前よりずっと明るくなりました」

「そうか、元々が暗い奴ではなさそうだ」

「夜寝る前の瞑想を日課にしているみたいで、今日は上手くいったとかあまり上手くいかなかったとか、時々報告がありますよ」

「ほ、瞑想をな?」

「仏教の本もよく読んでいますね」

「黒田には、考える基準が必要なのじゃ、世間の常識が全てではないことに気づけば良いが・・・」

「大丈夫ですよ、頭の良い子ですからあまり心配しないように。それに慈恵さんが弟のように可愛がっておりますから」

「ほう、あの仁王さんがか?なら安心だ、儂は最近、心配性になって困っておる」

「ほほほほ、また何かあったら電話しますね」と言って慈栄は電話を切った。


平助は炬燵に入って頬杖をつく。

一人の時間も愛おしい、人間の尊厳を言うのなら、孤独死を不幸なことだというのは間違いだ。

最後の瞬間は、自分にとって一番大切な、自分だけの時間であるべきなのだ。

最後の時くらい一人で迎えたい。


平助は布団を敷き床につく、今年もあと少しで終わろうとしている・・・今年もまた良い一年だった・・・


        

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