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弥勒の拳  作者: 真桑瓜
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私闘



私闘


アレックスが篠塚を監視しだしてから一ヶ月が経とうとしていた。

この日書店には、二人の客がいた。雑誌のコーナーと文庫のコーナーに若い男が一人ずつ。


『今度の私のおすすめはこれです』アーケード書店の店員、夏川よしえはそう言って篠塚に一冊の本を差し出した。

アーシェラ・K・ル=グウィン作“ゲド戦記・影との戦い”

「この作家はもともとSFの作家だったのですよ、しかも女性」

篠塚は本の題名と作者が女性であることに違和感を覚えた。

「この本は三部作の一巻目(後に三作が発表され全六巻となる)です」

篠塚は、よしえの差し出した本を手に取った。

「私がお勧めするのはこの本で最後です」

篠塚は『なぜ?』という顔でよしえを見た。

「もう、本の良し悪しが、篠塚さんにはわかるはずですもの」よしえは微笑んで言った。


「篠塚さんですね?」文庫のコーナーにいた男が声を掛けてきた。

篠塚は振り向いた。

「一緒に来てもらえますか?」男は言った。

よしえが短い悲鳴をあげた、振り向くとよしえの後ろにも男が立っている。

手に光るものが見えた。

「通報されると困るので」雑誌のコーナーにいた男が言った。

篠塚は、そっと本を置いた。男を見て頷く。

四人はアーケードを抜け路地に入る。

角を左に曲がったところに廃屋が見えた。

廃屋の裏庭は、風除けのサンゴの壁で視界が遮られている。

「アレックス!」男が廃屋に向かって声をかけた。

出てきたのは、黒人の男だった。引き締まった筋肉がTシャツの上から透けて見える。

篠塚は全てを悟った、本土にいた頃の腐れ縁がまだ続いているのだ。

『まあ、当然か』覚悟はできている。


「オレトタタカエ!」アレックスは片言の日本語で篠塚に言った。

篠塚はアレックスの目を見据えて軽く顎を引いた。

二人の日本人は、よしえの腕を取って後ろに下がる。

よしえの背中には、まだ光るものが突きつけられたままだ。

篠塚は、よしえを気にしながらアレックスの前に立つ。

アレックスは素早く腕を上げてサウスポーに構えた。

篠塚は構えも取らずただ立っている。

アレックスは警戒した、上原の姿を思い出したのだ。

アレックスはフットワークを使って篠塚の周りを回り出した。

軽く右のジャブを繰り出す。

篠塚は最小限の動きでこれを躱す。

アレックスは左のストレートを打つ機会を窺っている。

よしえを拘束している男が動いた、よしえが抵抗したからだ。

篠塚の気が逸れる。

アレックスはさっと飛び込み右のフックから左のストレートを放つ。

アレックスの拳が、篠塚の左の頬を切り裂いた。

篠塚はアレックスの左の脇をすり抜けて間合いを切った。

篠塚の頬は、カミソリで切られたように開いて血が流れ出している。

よしえは、目を背けた。

その時男の声がした。『女は俺が引き受けた、心置きなく戦え!』

見るとよしえを拘束していた男たちが一人の男に逆手を取られて呻いている。

『具志川・・なぜ?』考える暇はなかった。アレックスが一気に勝負をかけてきたのだ。

アレックスの動きが伸びた、大きく踏み込んで来る。

右のジャブから左のストレート、あと一センチ届かない。

次の攻撃に移るため左の拳を引く。

篠塚はこの機を逃さなかった。アレックスが拳を引くのに合わせてスルスルと前に出た。

次の瞬間、アレックスは大きく仰け反った、篠塚の縦猿臂がアレックスの顎にヒットしたのだ。

アレックスは後頭部から地面に落ちた、目は完全に裏返っていた。


「見事だ!」具志川は言った。

篠塚はアレックスが動かないのを確かめて、具志川の側に来た。

『どうして?』篠塚の目が訊いている。

具志川は、押さえている二人に言った。「その黒人を連れて帰れ!」

二人は腕を摩りながら立ち上がり、重そうにアレックスを抱えて廃屋から出て行った。

『大丈夫か?』篠塚は唇だけでよしえに訊いた。

「私は大丈夫、それより・・・」よしえはポケットからハンカチを出して篠塚の頬に当てた。

篠塚は具志川を見た。

「近頃、毎日道場の周りを怪しいやつらがうろついている、という報告があった」

篠塚は頷いた。

「それが今日に限って姿が見えない」

篠塚は『それで?』という顔をした。

「何かある、と思っていたらお前さんが出て来たので後をつけて来た」

篠塚が頭を下げようとした。

「礼はいらん、それよりこの場で俺と太刀合え」

『・・・?』

「俺は今日までずっと、お前を観ていた。立ち居振る舞いから、先生に対する態度、道場生への接し方その他諸々だ・・・」

篠塚は黙っていた。

「今では、だいぶお前を信じてもいいと思い始めている」

篠塚は具志川を見つめたままだ。

「だが、いまひとつ信じきれない、だから俺と太刀合え」

『・・・・・』

「・・・」具志川はじっと篠塚を見つめている。

篠塚が顎を引いた。『承知』の意味だ。

篠塚はよしえを後ろに下げて、具志川と向き合った。

「行くぞ!」

『こい!』

具志川は軽く両手を上げて立った、膝はわずかに曲がっている。

篠塚は、右猫足立ち、右掌底を上段に、左掌底を下段に構えた、雄大な天地の構え。

二人の間に殺気は無い、空気が静かに流れている。

具志川のわずかに前に出た右足が動いた、歩くように間合いを詰める。

死地を超えた瞬間、具志川の前拳が篠塚の顔面に伸びた。

篠塚は躱すことができない、どう動いても具志川の拳は篠塚を追ってくるだろう。

具志川の拳をギリギリまで引きつけ、篠塚が変化した。

沈身と開身を同時に使って右拳を放つ。

互いの拳は交叉し空を斬る。一瞬にして立ち位置が入れ替わった。

『相抜け』剣聖針谷夕雲が究極の太刀合いと位置付けた現象。


二人の動きが止まった。

だが、止まったように見えるのは見かけだけだ。二人の躰の中では、心が超高速で回転していた。まるで回転している独楽が止まって見えるように。

同時に、二人が動いた。引きつけられるように、まっすぐ相手に向かって行く。

互いの顔と顔が、ぶつかる寸前でピタリと止まる。

篠塚の貫手は具志川の喉に、具志川の掌が篠塚の金的に触れている。あと数センチ深ければ、具志川の喉は破れ篠塚の金的は潰れていた。



具志川が目で笑った。

篠塚も笑った。

二人は同時に間合いを切る。

「今日からヤーはワンのドゥシじゃ」

篠塚は首を傾げてよしえを見た。

「今日からお前は俺の友だ、と言ったのです」よしえは篠塚にそう伝えた。

篠塚は、深く頷いた。


その夜、篠塚は“ゲド戦記”を読んだ。

『血気にはやる高慢な若者ゲドは、魔法の修行中におごりと妬みの心から死の影を呼び出しその影に追われてさまよう。

師と仰ぐ魔法使いの言葉に従って、ある時を境に逆にその影を追うようになる。

追い詰めていった世界の果てで、ゲドが手にしたのは勝利でも敗北でもなかった。

彼は己の名を担う影を自らに吸収して一体となり、全き人間となった・・・』

『俺も・・・』






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