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弥勒の拳  作者: 真桑瓜
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瞑想と妄想


瞑想と妄想


今年初めての雪が降った。

湿気を含んだ雪は、まだ重い。

寺の境内も、本堂や庫裏の屋根も、白い雪で覆われた。

炭焼き小屋に至る道も、すでに見えなくなった。

黒田は、小屋の壁に掛け軸を掛けた。

胡座をかいて座った視線の先に、墨で描いた『円』がくるように。

囲炉裏では、炭がいい具合に燃えている。

黒田は、慈栄から貰った長い線香に火をつけた。

「この線香が燃え尽きるまでが丁度一時間です」と慈栄は言った。

黒田は、膝の上に手を置いて目を半眼に閉じた。

目を対象に据えながら静かに呼吸を繰り返す。

これでいいのか?足の形は?手の置き場所は?もっと背筋を伸ばした方がよくはないか?

次々と思考が現れる。

『ああ、これが雑念だな?』

もっと円に集中しよう。

『・・・』


しかし、外は雪が降っていたな・・・明日の掃除はきついぞ・・そうだ、石段は雪を除いておかなければ参詣の人が困るだろう・・まあ、こんな雪の日に来る人もなかろうが・・

数珠の玉のように思考が連鎖する。

『ああ、これが妄想になるのか?』

住職が言っていたなあ、人の心は妄想でできていると・・・

『・・・』


今、何を考えていたのだろう、円に集中できたのは何秒くらいだ?

いかんいかん、もっと集中しなければ。

『・・・』


頭の中に『シィーン』というホワイトノイズが聞こえる。

右の内耳に集中してみようか?

ホワイトノイズが、さらに大きくなり耳障りだ・・

ああ、また頭が考えている。住職は対象と一体になれと言っていたけど・・

『円を見るのだ』

『・・・』


しかし、尻が痛くなってきたなぁ・・座布団を敷けばよかった、右の耳も痒くなった・・ああ痒い、手を伸ばして掻こうか?いやだめだ、最後まで動いてはいけない・・『痒み・痒み・痒み』

『円を見ろ、集中するんだ』

『・・・』


しかしあの時は危なかった・・鉄橋から川に飛び込んだまでは良かったが足がつって泳げなくなった・・あの竹の根っこが目の前に現れなければ死んでいたな・・そうだ、あの朝、靴の紐が切れたんだっけ・・・あれは天の啓示だったのかなぁ・・・

『妄想・妄想・妄想』『円を見ろ!円だ』

『・・・』


貪瞋痴か、いいことを教えてもらったな、強くなりたいという欲・・・ライバルを倒したいという怒り・・・真理のことを考えるのはいいのかなぁ・・・

『円だ!』

『・・・』


あれっ?人の姿が見える・・男?いや女だ、堤防の上を歩いている・・・夢?ああ、俺は一瞬寝たのかもしれない・・・『眠気・眠気・眠気』

『集中だ・・・』

『・・・』『・・・』『・・・』


いつの間にか、線香の火が消えている。

黒田は目を開けて立ち上がった。足が少し痺れている。

「俺は一体何秒の間、『円』と一体化したのだ?何も考えなかったのは一時間の何千分の一だ?」

慈栄は一秒でも二秒でも、妄想のない時間を増やせと言っていた。

「俺はこんなにも、妄想で時間を無駄にしていたのか・・・」惜しいと思った。

しかし焦るな、真理はウナギのようなもの、焦るほど逃げてゆく・・・

黒田の日課が、また一つ増えた。



翌朝、一晩中降り続いた雪は踝まで積もっていた。

黒田は、新雪を踏んで寺まで降りた。庫裡の裏にある物置からシャベルと竹箒を持ち出して山門に向かう。

下界に続く石段には、段差を隠すように雪が積もっていた。

黒田は、シャベルで雪を掻き、竹箒で綺麗に雪を払った。

ふと気がついたことがある。

作業を始めた頃は、雪を掻くのに夢中になっていた。

だんだん慣れるにしたがって、頭に思考が現れる。

子供の頃の、なぜこんなことを覚えているのだろう、というような些細な出来事や、山を降りて槇草と対戦するときの技の事、過去の後悔や、未来への漠然とした不安が、時空を飛び越えて行き来する。

躰は一所懸命に雪を掻いているのに頭は全く別のことを考えている。

昨日の夜と一緒だ、何も考えていないつもりなのに頭の中は妄想が明滅する。

『俺は今までそのことに気付いてさえいなかった、それが当たり前の状態だと思っていたのだ』

今やっていることを今の心が認識する、こんな簡単なことが人間にはできないのだ。

『心身一如』『剣禅一致』とはこのことを言っているのか?

あまりにも難しい事なので、わざわざ言い残したのか?

やろうとしてできる事ではない。

やらなければできる事でもない。

ではどうすればいいのだ。

『只管打坐』、ただ座るだけ、後の思考は余計なものなのか?

躰は最低の集中力だけで動いている、後の全ては妄想に取られているのだ。

勿体ない、惜しい!

なんとか思考を抑えて、躰に集中力を取り戻したい。

そうすれば、俺の技は飛躍的に伸びるだろう。

いや、この思考がすでにいらないものなのだろう。

黒田はこの先この矛盾を抱えて生きなければならなくなった。


「黒田さ〜ん、朝ごはんですよ〜」山門の方からよっちゃんの声がする。

「あ、はい!」黒田は我に返った。

「今朝は、この前黒田さんが拾ってくれた銀杏のごはんですよ」黒田が山門のところまで上がってくるとよっちゃんが言った。「外皮の処理大変でしたね」

「あの時は手伝ってくれてありがとう」黒田は礼を述べた。

「どういたしまして、だって黒田さんに任せておいたら、日が暮れそうだったんですもの」よっちゃんはカラカラと笑った。

「面目ない、初めてだったので・・・」

「それより、その作務衣だけでは寒いでしょう?」

「はあ、動いていればそれほどでもないです」黒田はやせ我慢を言った。

「あの、綿入れの陣羽織を縫ってみました、着てみてください」よっちゃんは丁寧に畳んだ綿入れを黒田の前に差し出した。

「はあ・・・でも」黒田が躊躇していると、よっちゃんはさっさと黒田の後ろに回って羽織を着せかけた。

「ありがとう・・・、やあこれは温かいなあ!」

「そうでしょう、よかったら使ってくださいね」

「はい、すごく有難い・・・恩にきます」これで外の作業が楽になる。

「さ、ご飯を食べに行きましょう」よっちゃんが黒田を促す。

「はい、実は俺、銀杏ごはん初めてなのです、楽しみだなぁ」

「慈恵さんが作ったのですよ

「だったら、たくさん食べなければ叱られる」

「そうですよ、たくさん食べてあげてくださいね、慈恵さん喜びますよ」

二人は、境内の新雪に足跡を残しながら庫裡に向かった。



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