貪瞋痴
貪瞋痴(とん・じん・ち)
黒田は、寺の仕事を終えると境内の隅で柔術の稽古をした。
相手がいないので『受け身』や『形』の一人稽古である。
タロウを連れて山歩きをするおかげで、足腰のバランスが良くなったことは実感できた。しかし、槇草の顔がチラつくのだ。集中力が定まらない。
昔はそうではなかった。ライバルの顔を思い浮かべるとむしろ集中力は高まった。
ある日、厨房で慈栄の手伝いをしている時に、そのことを話した。
「それは欲と怒りと無知です」と慈栄は言った。
「欲と怒り・・・ですか?」黒田は怪訝な顔をした。
「仏教では貪瞋痴と言います」慈栄は続けた。「強くなりたいという欲、ライバルを倒したいという怒り、それを良しとする無知です」
「はあ・・・」黒田にはまだ良く分からない。
「今までいた世界から距離を置くことによって、欲と怒りが弱まって知恵が現れ始めたのですね」慈栄は説明を続ける。「欲や怒りでも集中力は出ますが、それは負のエネルギーです、必ず破滅する道です」
「少し待っていてくださいね」慈栄は、一度居間に戻った。
暫くして厨房に戻って来た慈栄は「これを差し上げましょう」と言った。
慈栄は一幅の掛け軸を黒田に渡した。それはただ中心に筆で太い円を描いただけのものだった。
「毎日寝る前にこの掛け軸の前で座りなさい」
「座る?」黒田は訊いた。
「そう、只管打坐、何も考えずにただ座るのです。いえ、何も考えないという事にも拘ってはいけませんね。ただ自分の心の流れを観察すれば良いのです」
「座禅を組むのですか?」黒田は以前禅寺で座禅を組んだ事があるが、足が痺れた事以外何も覚えていない。
「形に拘ってもいけません。リラックスして一時間ほど座れば良いのです。無理に結跏趺坐をして足が痺れるとそれに気を取られて集中できなくなります。それでは本末転倒ですからね」慈栄は笑いながら言う。「自分を追い込んではいけません、何かに集中したいときはなるべくストレスは少ない方が良いというのは、ものの道理ですよ」
「私は、『自分を追い込め』と教わりました。それが良いことだと思っていたのです」黒田が今まで多くの武術家に言われた事だった。
「無知なことです。瞑想するとすぐにわかるのですが、人の心は殆どが妄想と雑念でできています。そのことを観察している時間を一秒でも二秒でも持つのです。そうしているうちに自然と心が変化していきます。それが集中力を高める唯一無二の方法なのですよ」更に慈栄は続ける。「決してああなろうとかこうなるべきだと考えてはいけません。欲を消そうとすればそれが欲になり、怒りを消そうとすれば、それが怒りとなります」
最後に慈栄はこう付け加えた、「焦ってはいけませんよ、真理はウナギみたいなもの、掴もうとすれば逃げて行きますからね」




