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弥勒の拳  作者: 真桑瓜
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琉球の風


琉球の風


篠塚は、沖縄の城跡に立っている。

頬に海風が心地よい。沖縄特有のまとわり着くような暑さが、今日は無い。

篠塚の前には上原常一が立っている。何の事無く、ただ立っている。

上原は、本部御殿手もとぶうどぅんでぃーの達人である。

ただ立っているように見える立ち方は、御殿手特有のタッチュウグヮーと云う立ち方だ。

膝を曲げず、腰を落とさない。

踵はやや浮かし、拇指球に重心をかける。

胸を張り、腹を中心に据える。

攻防に際しては、どの方向にも滑らかに動けるはずだ。


本部御殿手は、琉球王族たる本部御殿にのみ伝わる秘伝の技である。

元手ムートゥディーと呼ばれる基礎鍛錬法と、取手トゥイティーと呼ばれる関節技・投げ、そして数々の武器術がある。

御殿手には単独動作としての『型』は無い、あくまでも組手を中心とした相対動作が中心である。

この辺り、空手とは逆の生き方だ。

空手とは深い交流があったはずなのに・・・武術の多様性を思い知らされる。


篠塚は、さっきから様々な攻撃を試みている。

しかし、悉く紙一重で交わされ反撃を受ける。

蹴りは全て技の起こりを抑えられ、まともに蹴る事さえ出来ない。

出来る事はやり尽した、これ以上は無意味だ。

篠塚は間合いを切り、黙って頭を下げた。


「どうだね、気が済んだかね?」

篠塚は声が出ない、咽喉の傷が生々しい。彼は黙って頭を下げた。

周りには二十人ほどの弟子が、草の上に整然と座り二人の組手を観戦していた。

どの顔にも殺気が無い、師を心から信頼している証拠だ。


「どうだね、これから一時間ほど稽古をする、それから道場に戻りもうひと汗かく予定だが、君も来るかね?」

篠塚は、膝を折り両手を地面について頭を下げた。声は無くても意思は通じる。

『こんなに優しい人は初めてだ、本当の優しさとはこんなに強いのか』篠塚は生まれて初めて人の優しさに触れた気がした。

否!俺に優しくした人はたくさんあった、ただ俺がすべて拒否してきただけだ。

平助に敗れ、声を失ってから素直に人の優しさを受け入れられるようになったのだ。


稽古は、全員の弟子と上原が太刀合った。

武器で掛って行く者、素手で掛ってゆく者、すべて上原に翻弄されている。


「さあ、道場まで走るぞ!」上原常一は先頭に立って走り出した。

篠塚も最後尾に付いた。



今日篠塚は、この城跡で御殿手の稽古があることを聞いて待っていた。

上原は、やはり先頭に立って城の坂道を駆け上がって来たのだ。

城跡に呆と立っている篠塚を見つけ、上原は弟子を待たせ一人で篠塚の前に来た。

「何か用かね?」上原は優しく訊いた。

篠塚は用意した紙に、『筆談をしたい』と書いた。

上原は頷いた。

『太刀合いを所望』と端的に書いた。

「承知」上原も即答した。


それから上原は、弟子を草の上に座らせて篠塚の前に立った。

「では」短く言ったのである。

それからは、前述のような顚末となる。



その晩、道場の裏にある上原の自宅で、篠塚は正式に弟子入りを許してもらえるよう頼んだ。

「君は本土の人間かね?」上原は訊いた。

篠塚は頷いた。

「名前は?」

『篠塚』と紙に書いた。

「今はどこに住んでいる?」

『ホテル』と書いた、幸い豊嶋の処にいた時に纏った金をもらっている、しばらくは大丈夫だ。そのうち安いアパートと職を探すつもりでいる。

「そうか・・・ところで、ものは相談だが、内弟子になるつもりはないかな?」

いきなりだった。篠塚は驚いて上原を見た。

「先日、一緒に住んでいた息子夫婦が、本土の本社に転勤になった。定年まで後何年もないのに・・栄転だそうだ」

『・・・』

「息子は武術には何の興味も示さなかったのだよ、私も無理には勧めなかった」

『・・・』

「孫は東京の大学に行っているしな。そんなわけで家内が大層寂しがっておる」

篠塚はペンを握った、『私の身元を訊かないのですか?』

「私の眼の前に君がいる、それ以上何を知る必要がある?」

篠塚は途方にくれた。このような恩情に甘えても良いのか?

「無理にとは言わん、明日までに考えておいてくれ・・・」




篠塚は、ホテルの部屋のベッドに寝転んで天井を睨んでいた。

上原の道場にたどり着くまでに、たくさんの空手の道場を訪ね太刀合いを所望してきた。

しかし多くの道場は篠塚を気味悪がって相手にしてくれなかった。たまに太刀合ってくれる道場があっても、篠塚の敵ではなかった。

入門するなら、ここしかない。

しかし内弟子とは技芸を習うだけではなく、その師匠の身の回りの世話をしながら、師匠の考え方を知り、癖や振る舞い雰囲気なども観察し、躰で感じ取って、師匠の持つ総合的な人間性をも学ぶものである。

篠塚は自分に問うた『俺にできるか?』もう三十を幾つか越えているのだ。

一時的とはいえ闇の世界に身を染めた自分が、少しでも師に迷惑をかけることがあってはならない、しかし今の俺がやり直すには此処しかない。

ギリギリの選択である。

師は目の前の俺だけを見てくれているのだ、少しだけ師に縋ろう。

篠塚は今まで、いかに自分が頑なに世間を拒否して来ていたのかを考えずには居られなかった。

『明日は荷物をまとめて師のところに行こう、そして内弟子を願い出よう』

篠塚の心に、希望の火が灯った。


次の日、ホテルを引き払った篠塚は、その足で上原の道場“拳聖館”に向かった。

拳聖館は小高い丘の上のサトウキビ畑の中にポツンと建っている。

道場に入るとすぐに上原が出てきた。午前の稽古の最中らしい。

「必ず来ると思っていたよ」上原は笑って言った。

篠塚は無言で頭を下げた。

「母屋へ回ってくれ、家内がいるから指示を仰ぐのだ。君の事は話してある」

篠塚は荷物を持って母屋へ回り、玄関の呼び鈴を押した。

「は〜い」玄関の引き戸を開けて出てきたのは、半分白くなった髪を綺麗にまとめあげた上品な女性だった。

篠塚は頭を下げた。

「篠塚さんですね?主人から聞いております、さあお上りなさい」

中に入ると茶の間に通された。六畳の質素だが清潔な部屋だ。新しい藺草の匂いが心地よい。

畳に手をついて頭を下げた、『よろしくお願いします』と言ったつもりだった。

「私は上原の妻で幸子といいます。ようこそおいでくださいました」幸子はにこやかに微笑んだ。

「面倒なことは嫌いです、ここを実家だと思って遠慮しないでくださいね」

篠塚は頷いた。

「早速ですが部屋は二階の奥を使いなさい、孫が使っていた洋室です」

篠塚は頷く。

「それから、ここから歩いて三十分のところに、小さな商店街があります、そこで生活に必要なものを買い揃えてきなさい。お金はありますか?」

篠塚は頷き両手を畳についた。

「お布団は孫の使っていたものだけど、よかったらお使いなさいね」

篠塚には上原の妻の発するすべての言葉が、涙の出る程有り難かった。



坂を下って海沿いの道を南に行くとアーケードがあった。

篠塚は手始めに家具屋に寄った。

一人用のベッドと小さな机と椅子、それに本棚を買った。

本などほとんど読んだことはない。だが生まれ変わろうとしている自分には必要だと思ったのだ。

「今日は暇だからすぐ配達してやるよ。荷造りに一時間ほど掛かるが、良かったら一緒に乗せてってやるけど?」家具屋の親父が言ってくれたので、篠塚はその間アーケードの中を見て歩くことにした。

二、三軒先に小さな本屋があった、篠塚は初めて本屋へ入った。客は一人もいない。

『難しい本は無理だな』篠塚は子供向けのコーナーへ回った。

何気なく背表紙を眺めていると、“モモ”という題名の本が目についた。

手にとって表紙を見る。

『これにしよう』篠塚はレジでお金を払った。


なぜこの本を買ったのか、理由は簡単である。

彼を育ててくれた祖母の名が“百代”だった事と、表紙に描かれた亀が、篠塚が子供の頃に飼っていた亀を思い出させたからである。

彼は佐賀の田舎で祖母に育てられた。祖父は戦争で死んでいる。

両親は死んだと聞かされている。どう死んだのかは教えてもらえなかった。

祖母はタバコ屋をして生計を立てていた。

両親のいない彼は、小学校でいじめられた。

池で拾ってきた泥亀が唯一の遊び相手だった。

中学校になっても、相変わらずいじめは続いた。

彼は新聞配達をして、そのお金で空手を習った。

新聞配達のお蔭で躰は頑健になり、それに伴って空手も強くなった。

もう誰も彼をいじめなくなった。

地元の工業高校に進学し、空手部に入った。

先輩で彼より強い者はいなかった。

悪い仲間に入り、度々停学を喰らったがなんとか卒業できた。

職にもつかず、仲間とカツアゲなどを繰り返していた。

あるとき良い獲物が見つからずイライラしていたところに、小さい女の子を連れた恰幅の良い中年の男が通りかかった。

普段なら、子連れとアベックには手を出さない。必死の抵抗を受けるからだ。

負ける気はしないが効率が悪い。

しかしその時は魔がさした、肩がぶつかったと因縁をつけて人通りのない神社に連れ込んだ。

嫌な予感がした、男が落ち着いているのだ。

向き合ってすぐに気がついた、『こいつには敵わない』

案の定、ぐうの音も出ないほどに叩き伏せられた。

襟首を掴まれ、境内に正座をさせられ懇々と説教された。

それが佐賀の警察道場に空手を指導しに来ていた観音寺剛三との最初の出会いだった。

祖母には何の孝行もできないまま死なれてしまい篠塚は天涯孤独となった。

二度目の出会いは、篠塚が職を探しに福岡に出てきた時だった。

博多駅のコンコースで偶然出会い、筋が良いからと剛三は篠塚を自分の道場に連れて行った。

剛三は堕落した自分の空手を叩き直し、師範代にまでしてくれた。

そんな剛三を、自分は裏切ったのだ。


そこまで考えた時、家具屋の親父に呼ばれた。

「拳聖館の母屋だったな、あんた内弟子かい?」

篠塚は頷いた。

「いい先生に出会ったな、しっかりおやりよ」

篠塚は暗い思考を振り払って、しっかりと頷いた。



家具を運び込むと、やっと部屋らしくなった。

買ったばかりの本棚に、買ったばかりの本を入れた。

ベッドに布団を敷き、枕を置いた。

『ここが今日から俺の棲家だ』

階段を降りて居間へ行くと、上原が戻ってきていた。昼の稽古が済んだのだ。


「部屋の準備は整ったかな?」上原が尋ねた。

篠塚は頷く。

「稽古は、朝昼夜の一日三回、君は明日の朝からでよかろう、今日はゆっくりするが良い」

篠塚は首を横に振った。紙に『今日の夜から』と書いて上原に見せた。

「そんなに焦らずとも良い、気が逸った時は一度立ち止まるものだ」

『・・・』

「君の顔にはまだ余裕が足りない、なぁに、真理は逃げては行かないよ」

『・・・』

「本土の人間を見ているといつも思うことがある。何に追われてそんなに急いでいるのか・・と」

篠塚は黙っていた。

「焦ったり力んだりしていると本当の力は発揮できない、今その証拠を見せてやろう」上原は立ち上がって右腕を出した。「君も立って私の手を握ってごらん」

篠塚は立って上原の手を握った。まるで立ったまま腕相撲をしているような形だ。

「私の腕を押さえ込んでみなさい」上原は篠塚の目を見て言った。

篠塚は満身の力を込めて、上原の腕を抑え込もうとした。が、どうやっても上原の腕はピクリとも動かない。

上原は涼しい顔で笑っている。「では行くよ」

何の抵抗もなく上原の力が篠塚の腕に流れ込んでくる。側で見ていれば暖簾を押しているように見えるだろう。

篠塚の腰は砕け尻もちをついた。何が起こったのか分からなかった。


「分かったかね?」上原は何事もなかったかのように続けた。「それよりも、明日からの君の仕事だが、これといった具体的な指示はしない。君が『これはやるべきだ』と思ったことをやればいい」

篠塚は顔をあげて上原を見た。

「ただし、家内の話し相手にだけはなってくれよ。君は声が出ないようだが心配はいらん、家内が勝手に喋るから適当に頷いていれば良い」

篠塚は笑って頷いた。

「あなた、聞こえましたよ」台所から幸子の声がする。



篠塚は部屋に戻ってベッドに寝転んだ。『さっきのは何だ?』

上原には何の力みも感じられなかった。『不思議だ?』


ふと本棚に目がいった、本を手に取ってページをめくる。

何気なく読み始める。汚い浮浪児の少女が出てきた。

この少女には不思議な力があって、人の話を黙って聞くだけでその人を幸せにする。

街の人は、その少女を友達として大切にしている。

『・・・』

だんだん読み進んで行くうちに、灰色の男が出現する、時間泥棒だ。

街の人は、灰色の男たちに時間を騙し取られ、どんどん怒りっぽくなって行き、少女にも冷たく当たりだす。

篠塚は本から目が離せなくなった『今までの自分ではないか』

少女は失われた時間を取り戻すために、不思議な亀と一緒に時間の旅をする。


いつの間にか眠ってしまった、階下から幸子の夕飯を告げる声がする。

篠塚は本を大切に本棚に戻し、階段を降りて行った。







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