初穂
初穂
次の朝、黒田は五時に起きて境内の掃除をした。
本堂からは、朝のお勤めであろう、慈栄と慈恵の読経の声が聞こえてくる。
冷たい朝の空気が心地よい、身も心も引き締まるようだ。
松葉箒で境内の隅々まで掃く。
山門の下の石段も竹箒で丁寧に掃いた。
小屋に戻り、昨日借りた本の続きを読む。
七時に、小屋の引き戸が開いてよっちゃんが顔を出した。
「おはようございます、朝ごはんですよ」
「おはようございます」
「昨夜は寒く無かったですか?」土間に立ったままよっちゃんが訊いた。
「はい、あなたの言われたように結構な寒さでした。でも囲炉裏の燠火だけでぐっすりと眠れましたよ、とても気持ちよかった」黒田はよっちゃんに微笑んだ。
「それは良かったです。でも雪が降る頃にはきっとストーブが要りますよ」
「きっとそうでしょうね」
よっちゃんに従って小道を下り寺に戻ると、庫裡の厨房にはすでに朝ごはんが用意してあった。
「おはようございます」黒田は料理を並べている慈栄に挨拶をした。
「おはよう、よく眠れましたか?」
「はい、おかげさまで」
「おはようクロちゃん、今日は初穂に付き合ってもらうからね。朝ご飯たんと食べておいたほうがいいよ」慈恵が御飯をよそいながら言った。
「おはようございます、実は俺知らないのです、初穂って何ですか?」黒田は正直に訊いた。
「ああそうか、無理もないね。初穂というのは寺の古くからの習慣で、その年獲れた作物を神仏に供え感謝する行事だよ」
「収穫祭のようなものですか?」
「まあそんなところだね、里の人たちに農作物を頂きに、お札を持ってお願いに行くんだ。そうして集まった栗や野菜や新米を料理して、里の人に振る舞い感謝する」慈恵は大まかな意味を黒田に伝えた。
「じゃあ俺は荷物持ちをすればいいのですね?」
「それだけじゃないよ、寺の人間としてちゃんと挨拶をするんだ」怖い顔で慈恵は黒田を睨む。
「挨拶・・・ですか?」人見知りの黒田には気が重い仕事だ。
「そうだよ、ちゃんと名前を言って頭を下げて、私と一緒に般若心経を唱える」
「俺、般若心経なんて知りませんよ」
「大丈夫だよ、私の後について適当に声を出していればいい、そのうち覚えるから」
「お経をそんな適当に読んでいいのですか?」
「いいんだよ、難しく考えることはない、気は心というだろう」慈恵はニッと笑った。
「はい・・・」黒田は釈然としない顔で頷いた。
「じゃあご飯が済んだら早速出かけるから、作務衣を着ておいで」
「俺、作務衣なんて持ちません」
「昔、炭焼きの爺さんが着ていたやつがある、後でよっちゃんに出してもらうといい」よっちゃんを見ながら慈恵が言った。
「慈恵さん、あれはあちこち破れていますよ、まぁ繕ってはいるけれど・・・」よっちゃんが慈恵に言った。
「その方が寺男らしくていいや、アハハハハ!」慈恵は豪快に笑い飛ばした。
よっちゃんが出してくれた作務衣を着て、黒田は竹籠を背負った。
作務衣はつぎはぎだらけだが、清潔で気持ちがいい。
まるで柔術の稽古着を着ているようだ。
竹籠は運動会の玉入れの籠より大きい。
山門を出て、里まで降りた。
里には田畑が広がり、その中に農家が点在している。
「まず手始めに、山下さんの家から行くよ」慈恵は一番大きな家を指差した。
「こんにちは!山下さん、弥勒寺の慈恵です」玄関に立つと、慈恵が大声で訪いを告げた。
「は〜い、待っていましたよ」この家の奥さんらしき人が出て来て二人を迎えた。
「お久しぶりです」慈恵は改まって頭を下げた。
「あら、三日前に会ったばかりじゃないの!」
「三日も会わなき久しぶりですよ」慈恵がおどけて言ったので、二人は顔を見合わせて笑った。
「あら、そちらのいい男は?」
「ああ、しばらく炭焼き小屋に住み込みで働いて貰う事になった寺男の黒田君です。ほらクロちゃんご挨拶しな」慈恵は黒田を促した。
「黒田です・・・」慌てて黒田が頭を下げた。
「無愛想な挨拶だねぇ、もっと言いようは無いのかい?」慈恵が渋い顔をする。
「いいじゃない、可愛いわよ。さあ、こんなところで立ち話もなんだから、中へ入ってお茶でも飲んで行って、初穂でお供えするものは用意してあるから」
「ありがとうございます、では遠慮なく」
仏壇の前に座ると、慈恵はお札を山下さんに渡し手を合わせた。
「仏説、般若般若波羅密多心経〜」
「はんにゃ〜は〜ら〜み〜た〜・・・ほら、クロちゃんも続けて」
「あ、はい・・・」黒田は慈恵の言葉を繰り返した。
「しょうけんご〜うんかいくうどいっさいくうやくしゃ〜り〜し・・・」
「しょうけんご〜うんかいくうどいっさいくうやくしゃ〜り〜し」
「しきそくぜ〜くうくうそくぜ〜しき・・・」
「しきそくぜ〜くうくうそくぜ〜しき」
「・・・・・・・・・・・ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー」
「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー」
「ハラソーギャーテーボウジーソーワカ・・・」
「ハラソーギャーテーボウジーソーワカ」
「はんにゃ〜しんぎょ〜」
「はんにゃ〜しんぎょ〜」
「・・・・・」
「はい、よくできました」慈恵は黒田に片目を瞑って見せた。
黒田は、恥ずかしくて俯いてしまった。
「キャーかわゆい、きっと里のおばさんたちのアイドルになるわ!」山下さんが手を叩いて喜んだ。
こんな調子で家々を回り、昼までに新米・かぼちゃ・ごぼう・里芋・椎茸・人参・山芋・レンコンなどを集めた。
「こんなに沢山、とても寺まで運べませんよ」
「心配しなさんな、持ちきれないものは後で里の人が寺まで運んでくれるんだよ」
「さてと、じゃ寺に帰るとするか」満杯になった竹籠を軽々と担いで、慈恵が立ち上がった。
黒田も立ち上がったがバランスを崩してよろけてしまった。
「なんだい、男のくせにだらしないね!」
「ちょ、ちょっとバランスを崩しただけです!」黒田は悔しかった、今までの柔術の修行はなんだったのだろう。
「ふん、そうかい・・・」
慈恵は山道を軽快に登り始め、黒田は必死にその後を追った。
昔、ある高名な写真家の、子供の頃の思い出を綴った文章を読んだことがある。
その中にこんな一節があった。
『・・・その頃は米俵をまだ小舟で運んでいました。川岸に米倉があり不安定な小舟から、米俵を米倉に運ぶのは女の人の役目だったのです。まだ二十歳くらいだろうか、綺麗な女の人が米俵を三俵も担いで、不安定な小舟から渡し板を伝って、米を米倉に運び込んでいました。どこにそんな力があるのだろうというくらい、華奢な美しい人でした』
多分に美化された思い出ではあるが、米俵を運んだのは本当だろう。当時の記録写真でも見た事がある。
慈恵を見ているとその光景が浮かんで来た。
まあ、華奢で美しい二十歳の女の人ではないけれど。
きっと筋力による力ではない、小さい頃からの、必要に迫られた習慣で身についた躰の使い方なのだろう。
余分な食糧もない時代、肉も簡単には手に入らなかっただろう時代。
自然に効率の良い躰の使い方を、自ら発見していったのに違いない。
生半可な武術の修行では追いつけないものがそこにはあるのだ。
黒田は、寺の仕事の中にその方法を見つけてみようと思った。
「もう直ぐ着くよ」振り返った慈恵は息ひとつ乱していなかった。
一方黒田は息も絶え絶え、作務衣は汗でぐっしょり濡れていた。
「どうしてそんなに重たい荷物を背負っているのに、平気でいられるのですか?」
「う〜ん、慣れかな?なんせ子供の頃から山の中で育ったからね。毎日重い荷物を担いで山道を登ったもんだ」
「子供の頃から・・・」黒田は心底驚いた。
「山道は一歩ごとに足の裏の感触が違うから、足が勝手に自分の一番気持ちのいいところを探して着地するんだ」なんのこともないように慈恵は言う。
「平らな所しか歩かない都会の人間には真似出来ない事ですね」
「そうかなあ?私には分からないけどね」
山門を潜って本堂に手を合わせると、慈恵は庫裡の厨房に直行し休む間も無く作業を開始した。仏様にお供えする作物を選別するのだ。
「クロちゃんは少し休んでていいよ」作業の手を休めず慈恵は黒田に言った。
「いえ、何かする事はありませんか?例えば薪割りとか・・・」
「馬鹿だな〜、薪割りは梅雨前に済ますものだよ、そうしなけりゃ薪が乾かないだろう。薪割りがやりたければ来年まで待ちな」慈恵はそっけなく答えた。
都会育ちの黒田には、そんな事も分からなかったのだ。
「黒田さん、ちょっと頼みがあるのだけれど」慈栄が奥から出てきた。
「はい、何なりと」
「寺で飼っている番犬のタロウを散歩させて来てくれませんか?」慈栄は胸の前で手を合わせた。「夕飯までに帰って来てくれればいいから」
「犬の・・・散歩ですか?」
「そう、でも一つだけ言っておきますが、決して引き綱を離さないようにね」慈栄はにっこりと笑った。
「はい、わかりました」
タロウは庫裡の裏手に住んでいる中型の柴犬だ。黒田は犬小屋の前にしゃがんでタロウに挨拶した。
「タロウ、よろしくな」
タロウはジッと黒田を見ている。
「よし、散歩に行こう!」黒田が引き綱を持つと、タロウは千切れんばかりに尻尾を振った。
寺の裏手から山に入った。途中に小さな沢があり、その向こうに獣道が続いている。
黒田はその道に沿って歩き出した。
「タロウ、そんなに嬉しいかい?」タロウは黒田を引っ張ってどんどん坂道を登って行く。
「ちょっとタロウ、もう少しゆっくり歩いてくれよ!」午前中の労働で、もう足がパンパンだった。
「こりゃ柔術の稽古の方が楽だな」黒田は独り言を呟いた。
その時、前方の笹薮で音がした。黒田は咄嗟に引き綱を話して身構える。
次の瞬間、小さな獣が転がるように飛び出して来た。
「うさぎだっ!」黒田が叫ぶと同時にタロウがうさぎを追って飛び出して行った。
引き綱を抑える暇もなかった。あっという間にうさぎとタロウの姿は見えなくなった。
「しまった!」後悔したが遅かった。黒田もタロウが走り去った方向へ駆け出した。
足の速さには自信があった。高校の体育祭ではいつも一番だったのだ。
しかし、山道は勝手が違う。思うように走ることができない。
途中何度も木の根につまずいて転んだ。しかし、受け身を取る事で怪我をせずに済んだ。
「全く、身についた技はありがたいものだな・・・なんて言っている暇は無いんだ、タロウを探さなければ!」
黒田はまた、走り出した。
黒田は暗くなるまで山の中を探し回ったが、タロウは見つからなかった。
肩を落として寺へ戻ると、山門の前で慈栄が待っていた。
「あんまり遅いから心配していましたよ・・・黒田さん、引き綱を離しましたね?」
「はい、申し訳ありません、明日もう一度山に入って探します」黒田は深々と頭を下げた。
「その必要はありません」
「えっ!」
「タロウは既に帰ってきています、餌を食べて今頃はぐっすりと寝ている事でしょう」
「それじゃあ・・・」
「タロウは脱走の常習犯なのですよ、でもいつもご飯時になると帰ってくるのです」
「そうでしたか」
「黙っていてごめんなさいね」今度は慈栄が謝った。
「いえ、だけど俺もお腹がペコペコです」
「お疲れ様でしたね、さあ夕飯にしましょう」慈栄は黒田を誘って庫裡の方へ歩き出した。
そんな風にして弥勒寺での二日目は過ぎて行った。
黒田は、タロウの散歩も日課に加える事にした。




