冬支度
冬支度
1
黒田は久留米で生まれた。
この辺りは、昔から知られた柔術王国である。
関東大震災の後、多くの道場が『柔道』と看板を掛け替えた今も、しぶとく柔術の道場が生き残っている。
旧士族の家に生まれた彼は、生まれつき体が弱く祖母の勧めで楊心流の道場に通っていた。
母はこの家の一人娘で、父は養子だった。
両親は優しい人であったが、祖父母は厳格な人間で彼は厳しく躾けられた。
最初は嫌々通っていた道場だが、水が合うというのかめきめきと力を付けて行き躰も丈夫になった。
高校は地元の進学校で、卒業する頃には道場に彼の相手をする者は師範以外誰もいなくなっていた。
祖母の厳命で福岡の旧帝大の医学部に進み、下宿で一人暮らしを始めた。
柔道部にも所属したが、柔術との違いに違和感を感じすぐに辞めてしまった。
彼が三年になった頃、祖母が死んだ。
以前から抵当に入っていた屋敷は地元の不動産屋に取り上げられ、失意のうちに祖父も亡くなった。
父はサラリーマンをしていたので、小さな借家を借りて母と住み始めた。
財産とて何もない没落士族の家に生まれた彼に、国立とはいえ医学部の学費は払えなかった。
彼は大学を辞め、生活のために西日本一の歓楽街で働き始めた。
皿洗い、ウエイター、バーテンダー、何でもやった。
ある日、客同士の揉め事から仕方無く柔術を使った。
彼の思わぬ強さが評判となり、用心棒のような仕事を頼まれることが多くなった。
評判が評判を呼び、彼は実入りの良い仕事を求めて店を転々とした。
彼は実戦で柔術の技を磨いた。
高級クラブで、バーテンダー兼バウンサーとして働いている時に松尾組の親分に出会った。
このクラブは、松尾組のシマ内にある。
親分は彼の品の良さと強さを愛し、目をかけてくれた。
そんな彼だから、店の女達にも人気があった。
或る女の色が嫉妬に狂って、彼を付け狙った。どこで手に入れたか銃を持っていた。
彼も飛道具にはかなわない。
それを聞きつけた親分が、うまく話をつけてくれた。
それから彼は、勝手に松尾のボディーガードをするようになった。
篠塚と戦ったのはその頃である。
2
黒田は椿山の麓でバスを降りた。
そこから弥勒寺まで、ゆっくり登って行くことにした。
山道を登るにつれ、世間の垢が少しずつ浄化されていくような気がする。
季節外れのツクツクボウシが鳴いている。
栗のイガがあちこちに落ちている。実はイノシシやサルが食べたのだろう。
途中で沢の水を飲んだ。沢蟹を追ったりしながら一時間かけて山門に辿り着く。
山門を潜ったとき、自然に頭が下がった。
本堂に手を合わせ、庫裡に回る。賽銭箱の上で猫が昼寝をしているのが見えた。
「ごめんください、どなたかおられませんか?」庫裡の玄関で黒田は声をかけた。
「は〜い、ただいま」
「こんにちは、無門先生からご住職へ書状を持参した黒田という者です」
「・・・」よっちゃんが口を半ば開いたまま黒田の顔に見惚れている。
「あの、僕の顔に何か・・・」
「あっ!失礼しました、住職に伝えてきますので少々お待ちください」よっちゃんは慌てて奥に引っ込んだ。
「どうぞおあがりください、住職がお待ちです」
「ありがとう、恐縮です」黒田はよっちゃんに礼を言って居間に入った。
住職は丸い卓袱台の前に座っていた。
「ようこそおいでくださいました、住職の慈栄と言います、無門先生からの書状をお持ちとか?」慈栄はにっこりと微笑んだ。
「はい、これに」黒田は膝を折って座り、今朝平助から預かった書状を慈栄の前に置いた。
「・・・」慈栄はゆっくりと目を通してから。「わかりました、お引き受けしましょう。ただし男の方はこの庫裡には住めません、裏山の炭焼き小屋でよかったらご自由にお使いください」と言った。
「はい、無門先生からもそう言われております」
「もっとも、もう炭は焼いてはいませんが」ほほほ、と慈栄は手を口に当てて笑った。
「では早速寝具とストーブを小屋に運んで下さい、もう夜は冷えますよ」慈栄は台所にいるよっちゃんに声をかけた。「よっちゃん、用意してあげてね」
「は〜い!」奥から元気な返事が返ってきた。
「それから、庫裡にある本は自由に読んで構いませんからね。ただし場所柄ほとんどが仏教の本ですが」慈栄は隣室にある本棚を指差した。
黒田は、荒れた生活の中で本を読む余裕さえ無くしていた自分に気がついた。
3
「どうぞこちらです」よっちゃんがストーブを抱えて小屋まで案内してくれた。
黒田は布団を担いでついて行った。「ありがとう、灯油は後で僕が運びます」
小屋は綺麗に片付いていた、二畳ほどの土間を上がると六畳の部屋があり中央には囲炉裏が切ってある。
「囲炉裏だけでは絶対に寒いですよ」よっちゃんが笑った。
黒田は部屋の隅に布団を置き、小屋の外にある水場に行った。
水は近くにある沢の水を竹の樋でタイルのシンクに引いてあるので、いつも水の流れる音がする。その水は循環し、また沢へと戻って行く。
「少し憩んだら庫裡に降りてきてくださいね、副住職の慈恵さんが帰ってきますので仕事のことは慈恵さんに聞いてください」よっちゃんは坂道を下りながら言った。「それから、お食事は朝と夕の二回ですから、きっとお腹すくと思いますよ」
よっちゃんが戻っていくと、黒田は小屋の裏に回ってみた。炭焼き窯はそちらにあった。
「どうやって炭を焼くのだろう、できれば炭を焼いてみたいものだ」黒田は窯を見ながら呟いた。
一時間程休んで庫裡に戻ると慈恵が帰っていた。
「おっ!よっちゃんが言っていたよりいい男じゃん!」慈恵は黒田を見るなり言った。
「慈恵さん失礼ですよ」慈栄は慈恵を諌めたが、慈恵は一向に構わない。
「私は慈恵、あんたは黒田君だね」
「・・・そうですが」黒田は遠慮のない慈恵の言葉に、ムッとしてぶっきら棒に答えた。
「よっしゃ、今日からあんたはクロちゃんだ」そんな事は意に介さず慈恵が言った。
「クロちゃん・・ですか?」黒田は面食らった、そんな呼ばれ方も初めてだ。
「そうだよ、文句あっか!」
「いえ、ありません」
黒田は完全に慈恵に呑まれた。試合なら気合負けだ。
「それでは早速仕事の説明をしよう!」慈恵は腕を組んだ。「まずは銀杏拾いだ」
「はぁ・・・」
「はぁ、じゃない、はい、だ!」
「は、はい!」
「この寺の境内には樹齢千年とも言われる大銀杏の木がある」腕を組んだまま慈恵は説明を始めた。
「クロちゃんはこの樹の下に落ちている銀杏の実を、ひとつ残らず集めてくる事、分かったね!」
「はい!」
まるで鬼軍曹の前の新兵みたいだ。
「必ずゴム手袋をしていくんだよ、素手で拾うと手が荒れるしそんな手でポコチンを触るとびっくりするくらい腫れるからね」
黒田は大きなビニール袋を持って銀杏の樹の下に立った。
「大きいな、そして堪らなく臭い」基本的におぼっちゃま育ちの黒田は、初めての仕事に戸惑った。
「まあいいか、とりあえず銀杏の実をひとつ残らず集めればいいんだろう」黒田は黙々と実を集め始めた。途中で慈恵が偵察にやって来て「葉っぱの下もよく見るんだよ!」と一言言って去って行った。
「集めてきました・・・」黒田は疲れた腰を伸ばしながら庫裡に戻って来た。
「クロちゃんダメじゃないか、庫裡に入ってきちゃ、臭くなっちゃうだろう!」慈恵は容赦ない。
「あっ!すみません」黒田は素直に謝った。
「裏の水場に直行!バケツに水を汲んで銀杏の実を漬けておいて」慈恵は黒田に命じる。
「はい!」黒田は自分の素直さが可笑しかった。
「二、三日してふやけたら外皮を剥くからね」
夕食前、黒田は慈恵に風呂焚きの仕事を仰せつかった。
「薪で風呂を沸かしたことはあるかい?」
「ありません」
「竃に火を起こしたことも?」
「はい、でもキャンプで石積みの竃に火を起こしたことはあります」
「まあいいか、だいたい同じ要領だよ。風呂の焚き口に、新聞紙と杉の枯葉を入れて火をつける、後は細い薪からだんだんと太い薪へ火を移していく」
「はいわかりました」
「あっ、そうそう、風呂桶に水を溜めるのを忘れないように、空焚きしたら大変だからね」
黒田が風呂の準備をして戻ると、食事の準備ができていた。
よっちゃんが言った通り異様に腹が減っていた。
「さあ、たんとおあがりなさい」慈栄が優しく声をかけた。
「いただきます」黒田は竃で炊いた炊きたてのご飯を、一口食べたときに驚いた。「ご飯ってこんなに甘かったのですね」
「電気釜で炊いたご飯は味気ないよ」慈恵が言った。
「労働の後だから、今日は特別美味しく感じるはずですよ」よっちゃんが言った。
三人はよく食べ、よく喋りよく笑った。
黒田は自分が場違いな場所にいるのではないかという気がした。
「ごちそうさまでした、食器を洗って小屋へ戻ります」話が途切れるのを待って、黒田は立ち上がった。
「あら、もう戻るのですか?」よっちゃんが残念そうに黒田を見る。
「それじゃお風呂を使ってから戻りなさい」慈栄が言った。
「いえ、それじゃ一番風呂ですから」
「そんな事、気にすることではありませんよ」
「男の入った後の風呂は、肌がすべすべするって言うし」
「これ、慈恵さん」
「へへ、冗談です」慈恵は舌を出して首を竦めた。
「それでは、お言葉に甘えて、それから帰りに本を一冊借りていってもいいですか?」黒田は慈栄に訊いた。
「どうぞご自由に」
黒田は本棚の前に立つ。すぐに目に付いたのが『日々是好日経』だった。
「変な名前のお経だな?」黒田が呟いた。「これをお借りします」
「まあ、良い本を選びましたね」
「明日は『初穂』の手伝いをしてもらうよ」慈恵がつっけんどんに言った。
「はいわかりました」『初穂』ってなんだっけ?まあいいか明日になればわかるだろう。
『日々是好日経』
過去を追い行く事無く、また未来を願い行く事無し。
過去は既に過ぎ去りしもの、未来は今だ来ぬもの故に。
現に存在する現象を、その場その場で観察し。
揺らぐ事無く、動じる事無く、智者は其を修するが良い。
今日こそ勤め励むべきなり、誰が明日の死を知ろう。
さすれば死の大群に、我ら患う事無し。
昼夜怠る事無く、斯様に住み励む。
此は正に「日々是好日」と、寂静者なる牟尼は説く。
黒田は、この経を読んで驚いた、これは正に自分の事を言っているのではないか?
自分は過去と未来に縛られている、今という時間を持っていない。
過去は過ぎ去ってもうどうにもできないのに、未来は未だ来らず、どうなるかわからないのに。
そんな事に思い煩い、今という時間を無駄にしている。
そのために心が揺らぎ、安定せず死ぬ事を恐れている。
今日、銀杏を拾っている時は何も考えていなかったじゃないか。
銀杏を拾う事だけに集中できたではないか。
つまり今という時間を持てたのだ。
過去や未来が“ある”と思うのは、ただの妄想なのだ。
その事に、本当に気付けば一日一日が自分のものになる。
皆、自分の時間が欲しいと言って悩んでいるが、そもそも自分の時間でない時間なんて、一秒たりとも無いのだ。
修行というのは、そのことに気づくためにあるのだ。
目の前の、やるべき事だけに集中する修行をするのだ。
慈恵さんは、その事を俺に教えようとしているのに違いない。
そこまで考えて、黒田は考える事をやめた。
「意味をつけることに何の意味がある。これ以上考えれば、妄想になるだけだ」
黒田は、裸電球の紐を引いた。




