剛三の夢
剛三の夢
剛三は天井を睨んでいる。そうしなければ涙がこぼれそうだったからだ。
目の前に白無垢姿の美希がいる。
その横には、紋付に羽織、袴の槇草がいた。
剛三の隣には死んだ筈の妻がいる。
妻は美希が三つの時に交通事故で他界した。
乗っていたタクシーが、居眠り運転のトラックと正面衝突したのだ。
美希は奇跡的に助かった。妻が咄嗟に美希を庇ったからである。
それから、剛三は男手一つで必死に美希を育てた。
美希が熱を出した時、汗臭い空手着の背中に美希を背負って病院に走ったこともある。
慣れない手で包丁を握って、指を切ったことも数知れない。
今なら、ちょっとした料理人にも引けを取らない自信がある。
「美希危ない!」剛三は大声で叫ぼうとするが、声にならない。
美希は柿の木に登って行く。
「美希、柿の木はダメだ!」美希には聞こえない。
剛三は必死に走るが、足が思うように動かない。
美希はどんどん登って行く。
ついに美希の乗っている枝が折れた。
美希はゆっくり落ちてくる、まるでコマ送りの映画みたいに。
もうダメかと思った時、美希は屈強な若者の腕に抱きかかえられていた。
「美希さんを僕にください、きっと幸せにしてみせます」と若者は言った。
妻が言った「美希は幸せになりますよ」
そこで、目が覚めた。
剛三の目には、涙が浮かんでいた。
いつか覚悟を決めなければならない時が来る、「それまで、もう少し俺に時間をくれ」
剛三は、誰にともなく呟いていた。
剛三は、恵まれた少年時代を送っている。
剛三の実家は裕福な農家で、熊本は自然豊かな土地だった。
野山を駆け回り、川で泳ぎ、メジロを捕ったり、釣りをしたり、やることは無限にあった。
また、昔から柔道の盛んな土地で、剛三も近くの道場に通っていた。
三人兄弟の末っ子で、姉と兄がいた。
兄とは庭に筵を敷いて、よく乱取りをした。
中学の時、神社の境内で行われる奉納相撲で、大の大人を投げ飛ばしたこともある。
中学を卒業して、東京の商船学校に入った。次男坊の気楽さがあったのだろう。
日本は、太平洋戦争に突入する時期ではあったが、剛三にはまだ危機感というものがなかった。
商船学校の同級生に、沖縄出身の無口な男がいた。名を金城という。
剛三は陽気な男だった。陰陽というのだろうか、無口な金城とは妙に気が合った。
甲板を掃除する金城の動きには、不思議な機敏さがある。武道の心得があるのかもしれない。
ある時剛三は聞いてみた、「俺は柔道をやっとったばってん、おんしゃ何かやっとったとか?」
「俺は、空手だ」金城は短く答えた。
「空手?沖縄の武術か」剛三は尋ねた。
「そうだ」言葉を惜しむように金城が答える。
「そりゃ珍しか、いっちょ俺の柔道と勝負してみんね?」剛三は気軽にそう言ってみた。
「わかった」相変わらず愛想無く金城が言った。
埠頭の空き地で二人は対峙した。他には誰もいない。
「きんしゃい!」剛三は腰を落として構えながらそう言った。
「・・・」金城は無言で構えをとった。
不思議な構えだった。前脚の踵が地面から浮いている。
「りゃりゃりゃ!」剛三は気合をかけながら金城の周りを回る。空手がどういうものかわからない、まずは様子を見ようと思った。
「・・・」相変わらず金城は無言。
襟を取ろうにも金城の守りは堅い、このままでは埒があかない。
剛三は構えを低くした、相撲の立会いでぶつかってみようと思ったのだ。
瞬間、剛三の足は地を蹴った、頭から金城の胸にぶつかっていった。
同時に金城も宙に跳んだ。
金城が剛三の視界から消えた。
後頭部に衝撃が走る、剛三は顔から地面に突っ込んでいった。
金城が剛三を飛び越しざま、踵で剛三の後頭部を蹴ったのだ。
「本気で蹴ってはいない」金城が言った。
剛三は立ち上がって顔の泥を手の甲で拭った。「凄か技じゃ!」
生来の素直さが、剛三にそう言わせた。
この事があってから、剛三は沖縄県人会の寮に出入りするようになった。
金城がそこの部屋の一室で、空手を習っていたからだ。
本部義衛という人がいた。
この人は白人のレスラーを一撃で倒したという達人である。
体格は、剛三に似ていて大柄である。
この義衛が、剛三の明るさを愛した。
剛三はスポンジが水を吸うように、義衛の技を吸収した。
商船学校の三年間、剛三は空手に打ち込んだ。
その間に戦況は悪化の一途をたどっていた。
就職が決まって、卒業が間近に迫ったある日、母が郷里から上京してきた。
剛三は駅まで迎えに行った。
「剛三、元気やったね?」母は涙目で尋ねた。
「元気やったタイ、母ちゃんも元気そうばいね」剛三も嬉しかった。「折角東京に来たとやけん、皇居ば見に行こうか?」
剛三は、母の手を取るようにして歩き出した。
しばらく行くと、憲兵が立ってこちらを睨んでいるのが見えた。
嫌な予感がした。
憲兵は、長靴の踵を地面に叩きつけるようにして、こちらに歩いて来た。
「おいお前、その帽子は東京商船のもののようだが、名前は!」憲兵は威圧的に言った。
剛三はムッとしたが、顔には出さず「はい、観音寺剛三と言います」と素直に答えた。
「お前は、日本の戦況をわかっておるのか!」今にも噛みつきそうな勢いで憲兵は言った。
「私は、商船で学んだ技術で輸送船を操り、お国のために奉仕したいと思っております」これは本心であった。
「ならば、なぜこの緊急時に女連れで歩いておる!」憲兵は自分の声に興奮し始めている。
「三年ぶりに母と逢ったものですから・・・」剛三は返答に困った。どう言ったらこの憲兵に分かって貰えるだろう。
「それが軟弱だと言っておるのだ!」憲兵の目は血走っていた。「手を後ろに組んで歯を食いしばれ!」
剛三は、抵抗は無駄だと知って黙って手を後ろに組んだ。
「ようし、歯を食いしばれ!」いきなり左の頬が鳴った。
頭の芯が痺れた、今度は右の頬が鳴った。
母が、泣きながら訴えている、「私が悪うございました、私が悪うございました!」
剛三は心の中で言った、「母ちゃんは悪うなか!」
十発まで殴られたのを覚えている。気がつくと憲兵が血まみれで倒れていた。
剛三は無意識に、空手の技で憲兵を倒してしまった。
この事が問題となり、剛三の卒業も就職も駄目になった。
結果的には、このことが剛三の命を救ったのだが、この時は傷心を抱えて故郷へ戻ったのである。
父も兄弟も、剛三を責めなかった。
剛三は故郷の温かさに迎えられ、「戦地に赴く前に」という配慮から幼なじみの敏江と結婚した。
終戦の年、剛三は二十歳になろうとしていた。
次の年、美希が生まれた。
美希が二歳になった時、知人に請われ事業を手伝うために福岡に来た。
仕事の傍ら、福岡の大学や警察署で空手を指導した。
憲兵を倒した話に尾鰭がついて伝わったおかげである。
次の年、妻が死んだ。当然ながら剛三は途方にくれた。
しかし、悲しんでいる暇はなかった。美希を育てなければならない。
実家からは、戻ってこいと何度も言われた。
しかし剛三は、一人で美希を育てる決意をした。
少しでも美希の側に居てやるために、戦後の焼け跡に道場を建て空手を教え始めた。
知人が、退職金代わりにと出資してくれたのだ。
警察や学校の関係者が多く入門してくれたおかげで、道場の経営は軌道に乗った。
それからは、空手三昧の日々が続いた。生活は苦しかったけれども剛三は幸せだった。
あのまま商船会社に就職していれば、死んでいた可能性が高い。
終戦間際、民間の船は軍に徴用され、輸送船として多くは海の藻屑となったからである。
美希が十五の年、ボクシングの試合に飛び入り参加をしようとして無門平助に先を越され、臍を噛んだ。
師の本部義衛の真似をして、自分の力を試したかったのだ。
「奴を倒せば、ボクシングに勝ったと同じだ」という短絡的な思考から、平助を待ち伏せて尋常の勝負を挑んだ。
結果は惨憺たるものだった。
あれから七年後、篠塚を介して再び平助と出会い自己の未熟を悟った。
さらに三年、今では平助の弟子槇草も道場に出入りしている。
剛三、四十五歳、ある夏の夜の夢であった。




