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弥勒の拳  作者: 真桑瓜
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比嘉幸長



比嘉幸長


「もうし・・もうし、どなたかおいでなさらんか?」

玄関で訪う声がする。

「は〜い、どちら様ですか?」非番で朝から一人稽古をしていた槇草が応えた。

玄関に出てみると品の良い小柄な老人が立っていた。黒い紋付に袴姿、鼻の下と顎には真っ白な髭を蓄えている。

「私は比嘉幸長という者だが、無門先生はご在宅かな?」比嘉と名乗る老人は槇草を見て尋ねた。

槇草は、その名前に聞き覚えがあった。

「いえ、師匠は所用で朝から出かけております」槇草は膝を折って座りながら答えた。

「そうか、それは残念だな。私は平助とは沖縄で空手の稽古をした仲でな、東京の県人会に呼ばれて上京したのだが、思いの他用事が早く済んだものだから一目平助に会いたいと思うて、こうして訪ねて来たのじゃ」

「師匠は間も無く戻ると思います、よろしければ上がってお待ちになりませんか?」

「ありがたい。ではそうさせてもらおう」老人は履物を脱ぎ、道場の入り口で礼をした。

槇草が奥に案内しようとすると、「ここで良い」と神棚に向かって座ってしまった。

槇草は急いで座布団を持ってきて老人に勧めた。

「ありがとう。しかしこの道場は良い気が流れておるな」老人は座布団には座らず、神棚に手を合わせた。

「どうぞ座布団をお使い下さい」槇草は再び座布団を勧めた。

「では、そうさせてもらおうか」老人は身軽な動作で座布団に座った。

「初めまして、私は槇草と申します。先生のお名前は師匠からお聞きしておりました」槇草はあらためて挨拶をした。

「ほう」老人は目を細めた。

「私が風呂焚きをしていた時に、懐かしそうに沖縄の話をしてくださいました」

「君は内弟子かね?」

「いえ、住まいは別のところですが、暇さえあればここにきております」

老人の背はピンと伸び、目は鷹のように鋭い。未だ現役の武術家である事を示していた。

「比嘉先生、失礼ですがお尋ねしてもよろしいでしょうか?」槇草は、兼ねてより疑問に思っていた事を聞いてみようと思った。

「ほう、何かね?私にわかることならお答えしよう」老人は鷹揚に頷いた。

「沖縄の空手には『型』しかない、というのは本当でしょうか?」

「誰が言ったのかね?」怪訝そうに、老人は聞いた。

「師匠がそう言っていました」

「平助の無精者め」老人は渋い顔をした。

「違うのですか?」

「半分正解で半分間違いだ」

「それは・・・」

「沖縄の空手にも『組手』はある、だがそれは制定されたものではない」

「制定?」

「そうだ、『型』は制定されておるだろう?」

「はい」

「しかし組手は違う。『型』の中にある技に、相手を付けて試すのが『組手』だ、”手”つまり技を組み立てていくから『組手』だな」

「手を組む・・・」

「これはもう、個人の創意工夫の領域だ、決まった形はない」

「だから師匠は『型』しかないと言われたのですね」

「そうだ、しかしこの創意工夫には大原則がある」

「それは・・・」

「受けた時には反撃も終わっていなければならない」

「攻防一体だと・・」

「“受け”という言葉はあるが、“受け”という技はない」そう言って老人は立ち上がった。

説明をしながら興が乗って来たようだ。

「例えば、『抜塞』という型の中に、体躱しという技がある」

そう言って老人はその形を示した。

「『型』の上では受けになっているが、この手を突きに変えればそのまま攻防一体の技になる」老人は槇草を見た。「突いてきてごらん」

「えっ、良いのですか?」

「構わんよ、思い切り突いて来なさい」

もとより老人を侮るつもりはない。槇草は構えを取ると機を伺った。

老人の上段に隙を見つけた瞬間、槇草は渾身の突きを放った。

ゆらり、と老人が動いた時には、既に拳が槇草の脇腹に届いていた。

「凄い!」槇草は目を見張った。

老人はにっこり笑って、再び座布団に腰を下ろした。

「歳も考えず、つい柄にもない事をしてしもうた」

槇草は、我知らず道場の床に額を擦り付けていた。

「お願いします!もう一度、是非一手御指南を!」我ながら、古い言い方だと思ったが、一番心が通じると思った。

「ほう、この老いぼれと試合うつもりかね?」

「ご無礼の段、いかようにもお詫びいたします!しかしこの機会を逃しては一生の不覚、死んでも死に切れません」

「大袈裟じゃのう」

「なにとぞ、何とぞっ!」槇草は、必死に頭を下げた。

「儂の空手に手加減はないぞ」老人は鷹の目で槇草を睨んだ。

「構いません、先生の技が見られるのならこの命の一つや二つ!」

「そうか、そこまで言うなら」老人は、仕方がないというように立ち上がった。

槇草も立った。

「では」

老人は静かに槇草を見据えた。

槇草が構えた途端、老人の姿が何倍にも大きく見えた。

先程の太刀合いとはまるで違う威圧感だ。槇草は蛇に睨まれた蛙になった。

呼吸が速くなり、心臓が破裂しそうに膨張した。

汗が滝のように流れ、稽古着を濡らした。

何もできないまま、永遠と思われる時が過ぎた。

槇草は跪き、頭を垂れた。

「参りました」

老人も構えを解いた。

「平助も、良い弟子を持ったものじゃな」


その時、玄関が開いて平助が帰って来た。

「おお!幸長来ておったのか!」

平助は幸長としっかりと手を握り合った。

「槇草、酒を買ってこい、一升じゃ足らんぞ!」

「はい!」

槇草は稽古着のまま道場を飛び出していった。





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