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弥勒の拳  作者: 真桑瓜
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槇草悠


槇草悠


槇草悠は西南鉄道の社員である。街を走る路面電車の運転手だ。

高校の頃は、剣道部の主将をしていたのだが、田舎の映画館で高倉健のデビュー作“電光空手打ち”を観て空手に興味を持った。

その頃街には、空手の道場は二つしかなかった。

まず槇草が訪れたのは、実戦空手を標榜する剛道流の道場だ。

師範は、壮年の偉丈夫で相撲取りにしても良さそうな体格だった。

「何、入門希望だと?うちは荒いぞ、稽古を見て怖気付くなよ」槇草が来意を告げると師範は嘯いた。

一通り稽古を見せてもらった後、師範代だという男が近づいてきた。

「入門するなら、入門料三千円、月謝は二千円だ、それから『死んでも文句は言いません』という誓約書を書いてもらう」男はそう言って薄ら笑いを浮かべた。

二千円の月謝はべらぼうだった、槇草の給料ではとても払えない。

「考えてみます」槇草は頭を下げた。

「やはり怖気付いたか」師範代はもう、槇草には何の興味も示さなかった。


次に訪れたのが、どぶ川の辺りにある、掘建小屋のような道場だった。

木製の扁額には、消えかかった文字で“如水流空手道 妙心館”と書いてあった。

「こんにちは、お願いします!」槇草は玄関から声をかけた。

「どなたかな?」奥から返事が返ってきた。

「あの、入門希望の者です、槇草と申します」

「そりゃ珍しい、ちょっと待ってなさい」奥から出てきたのは小柄な老人だった。

「半年ぶりじゃな、入門希望者は」

老人の眼には柔和な光が宿っていた。街で出会ったなら普通のお爺さんだ。

『この人が空手の先生?』槇草は訝しく思った。

「あの、稽古を観せていただけますか?」槇草は単刀直入に言ってみた。

「いいよ・・・と言いたいところじゃが弟子がおらん」

「ああ、まだ稽古の時間ではないのですね?」

「いいや、稽古の時間はとっくに過ぎておるのじゃが、最後に残った一人が来んのじゃ」

「それはどう言う・・・」

「儂の稽古が高尚すぎてついてこれなかったのじゃろうな、あははははは」老人は屈託無く笑った。

この人が、この道場の師範に違いないが、弟子がいないのではしょうがない。きっと師範が弱すぎて、誰も相手にしなくなったのだろう。剛道館の先生とは大違いだ。

「わかりました、出直してきます」槇草は礼を言って立ち去ろうとした。

「ちょっと待て、儂も退屈しておったところじゃ。少し遊んで行くが良い。茶ぐらい出すでな」

「ですが稽古が観れないのなら・・・」

「まあ待て、誰も稽古を見せんとは言っておらん」

「でも・・・」

「まあ慌てるでない、ちょっと上がれ」老人はさっさと奥に入ってしまった。

仕方なく槇草が靴を脱いで道場に上がると、正面に神棚が祀ってあった。

老人が道場の真ん中で胡座をかいて座ったので、槇草はその前に端座した。

「まあ、足を崩して楽にするが良い」

「はあ・・・」そう言われて年配者の前で足を崩すわけにも行かず、槇草はそのまま座っていた。

「まあ良い。ところで君は武道の経験はあるかね?」

「はい、剣道をやっていました」

「ほう、剣道をな。ではなぜ、空手をやろうと思ったのじゃ?」

「映画を観て、興味を持ったからです」正直に答えた。

「ちょっと前までは、君と同じ理由で入門してくる若者がたくさんおったよ」

槇草は多少気が引けた。ミーハーだと思われたかも知れない。

「まぁ、悪いとは言わんがイメージとのギャップが大きすぎたのじゃろうな。皆、三月と続かず辞めてしまう」老人は寂しそうに笑った。

槇草は何と返事をして良いやら分からなかった。

「ところで、剣道は何年やった?」老人が話題を変えた。

「小学五年生の時からだから、八年とちょっとです」

「じゃ、かなりできるかな?」

「高校の時は、剣道部の主将でした」槇草はちょっとだけ胸を張った。

何を思ったか、老人はいきなり立ち上がると道場の刀掛けから木剣を二本持って来た。

「ひとつ儂と勝負してみんか?」

「えっ!」冗談じゃないと槇草は思った、こんなところで木剣で太刀合って老人に怪我などさせたら大変だ。

「今、儂に怪我でもさせたらどうしよう、と思ったな?」

「い、いえそんな事は・・・」

「遠慮せんで良い、稽古が観たいと言っておったではないか」

「でも・・・」

「儂に勝ったらこの道場をやろう」

「ええっ!」

「ははは、冗談じゃ。それとも儂に恐れをなしたかな?」

『まさか!』と、腹の中で毒づいた。

仕方なく、槇草は木剣をとった。こうなったら手加減して相手をするしかない。

互いに向かい合って青眼に構えた。

暫くすると老人がゆっくりと手を下ろした。右手にだらりと木剣を下げて立っている。

『俺を舐めているのか!』槇草はついカッとなった、多少手荒いが仕方がない。

左足で床を蹴った、得意の飛び込み面だ。

『決まった!』そう思った時にはしたたかに胴を抜かれていた。

肋骨に痛みが走った。ヒビが入ったに違いない。

痛みを堪えて老人に向き直り、ゆっくりと左上段に構えた。

老人の切っ先が、剣を斜めに寝かせた形で槇草の眉間を捉えた。

槇草は動けなくなった。上段の剣をどこにも下しようがない。身体中が冷や汗で濡れていた。

と、老人の切っ先が僅かに右に開いた。槇草は、その動きに誘われるように老人の面を狙って剣を振り下ろした。

老人の姿が消えた瞬間、槇草の頸に激痛が走った。


「むぅん・・・」気がつくと目の前に老人の顔があった。

「気が付いたかな?」

「僕は一体・・・」

ハッとして槇草は飛び起きた。

「僕を弟子にして下さい!」そう言っていた。





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