無門平助
弥勒の拳
無門平助
老人の名前は、無門平助。
この老人には謎が多い。戦後すぐにこの場所に住み着き空手を教え始めた。
戦時中は、軍の特務機関で武術を教えていたそうだが、詳しい事は分からない。
最初は珍しさも手伝って、道場は盛況だった。
しかし、西洋の運動理論に慣れ親しんだ若者には、旧弊な平助の稽古方法は馴染まなかった。
弟子が減っても老人の暮らしぶりは変わらなかった。近所の人は『きっと旧陸軍の秘密組織から金が出ているのだろう』と噂しあった。
たまに一週間ほどいなくなり、またいつの間にか戻ってくる。
表向きは空手の道場だが、剣術・柔術・居合・棒術など、興が乗ればなんでも教える。
娯楽の少なかった当時、街にはよくボクシングの興行が来た。
余興として、飛び入り参加が認められ、プロのボクサーに勝ったものには賞金がついた。
腕に自信のある若者は、勇んでリングに上がったが一人として勝つ者はいない。
そんなある日、老人がリングに上がった。
主催者は困った顔をした。
相手の選手も、手のひらを上に向けて肩を竦めた。
「遠慮はいらん、手加減は無用じゃ」老人は白人のボクサーに言った。「どうせお前さんもアルバイトの兵隊だろう?」
この街にも進駐軍の基地がある、ボクシングの心得がある兵士が、アルバイトでリングに立つことはよくある。
主催者は英語で通訳した。
ボクサーの顔色が変わった。兵隊のアルバイトと一緒にされては堪らない。ニヤついていた顔からは笑いが消えた。
飛び入りは1ラウンドだけだ。ゴングが鳴った。
ボクサーは、胸の高さで両拳を構えたオーソドックススタイル。グラブの上から平助を睨む。
平助は両手をだらりと下げた無構え、左足が多少前に出ている程度。眼を細め相手の肩越しに観客席を観ているようだ。
ボクサーは軽くステップを踏みながら平助の周りを回る。
平助は相手に正対するように向きを変えるだけで、その場を動かない。
ボクサーは軽くジャブを放つ、平助の動きを誘っているのだろう。
だが、平助は動じない。
業を煮やしたボクサーが、左足を踏み込み左ストレートを当てに来た。
しかし、紙一重で拳は当たらない。
ボクサーは首を捻る。
何度か試すが結果は同じだ。
ボクサーは焦った、もしこのまま1ラウンドが終われば自分は笑い者になる。
仲間のボクサーにコケにされるだろう。
右足が強く床を蹴った。必殺の右ストレートを平助の顔面に叩き込むためだ。
突然ボクサーの視界から老人の姿が消えた。次の瞬間、老人の顔が目の前にあった。
平助が右足を滑るように繰り出し、ボクサーの懐に入っていたのだ。
右の中高一本拳が、ボクサーの鳩尾にめり込んでいた。




