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幻の鎮守府  作者: 凪沢渋次
8/26

8.嵐の前

 台風の影響らしく、その日の海は荒れていた。

 館山のいつも穏やかな太平洋でも、遠くに白波が立っているのが見えた。風は特に強かったが、湿度の高い、生ぬるいものだったので、当たってきてもあまり抵抗を感じず、決して気持ちのいいものではなかった。

 私はホテルの自室で荷物をまとめていた。もう数週間も寝泊まりしている部屋なので、少しは愛着も湧いてきていたが、荷物を片付けてしまえば、元の味気ない、無感情のビジネスホテルに戻っていく。

 おそらく私は、今回のプロジェクトチームを解任されるであろう。昨日の面々の反応を見れば、容易にそれとわかる。そうなればそうなったで、私は先んじて、次の仕事のための準備に入らなくてはいけない。少しでも早く東京の自宅に戻り、次の旅の支度をしたかったのだ。


 夕べの大澤邸での会合は、ほんの1時間足らずで終了した。私が並べた「雨宮資金」「里見講」「稲荷神社」などに関する、遠大な仮説を、永谷、山崎は辛抱強く最後まで聞いてくれていた。そしてその最後に、私は、それまでの仮説の根拠資料として、一冊の古文書を永谷の目の前に提出したのだ。それを目の当たりにした二人は、驚きとも、呆れともとれる表情でそれを見つめ、数分後、ついに「今日のところは一旦ここまでに」と、永谷が会合を切り上げたのだった。 

 私の仮説の根拠となっていた文献は、滝沢馬琴の代表的な長編小説『南総里見八犬伝』であった。江戸時代後期に発表された人気小説で、日本文学史上でももっとも長い物語の一つとされている。いわゆる連載小説なので、“長い”ということは、それだけ人気が持続していたことを表わす。空前のヒット作だったわけだ。

 「南総」とは南房総のこと、つまりこの安房、館山周辺の地を表わす。そして「里見」はもちろんこの地を治める大名、里見氏のことだ。『南総里見八犬伝』は室町時代のこの地の里見氏を題材に描かれた、壮大な冒険譚なのだ。

 私は「雨宮資金」や「里見講」の調査のため、あるとき神田の古本屋街に立ち寄った。普段からよくいく街なので、どんな本が欲しかったら、どの店にいけばいいのか、だいたい心得ていた。本来の私の専門は現代史なので、江戸時代の文献を探すことはほぼ初めてだった。しかし、館山研究の資料集めにはどうしても必要を感じ、初めて江戸後期の文献を多く扱う書店に入った。いろいろと物色しているうちに、『南総里見八犬伝』の一部、当時の写本の一冊を見つけた。ヒット作なので、写本は比較的多く市場に出回っているのだが、私がラッキーだったのは、見つけた写本が、一般の読本愛好家のものではなく、国学者本居一門の弟子の所有物だったことだ。名前はわからないが、この勤勉な国学者の卵は、『南総里見八犬伝』を、単に血湧き肉躍る冒険活劇としてだけ読むのではなく、南房総文化史の結晶だと捉えていたようだ。そのことが、写本の端々に細かく書き込まれた朱墨の文字に残っていた。それを丹念に読み解いていくと、彼がどのように『南総里見八犬伝』を読んでいたのかがよくわかる。そしてそれは、図らずも同時代の人間が、里見氏に対してどのような印象を持っていたのか、また、それがどんな根拠をベースにしていたのか、など、館山を巡る数々の謎の、解決の糸口になっているのだった。少なくとも私はそう解釈した。


 『南総里見八犬伝』のストーリーを大雑把に説明すると、安房の領主、里見氏を、呪いから守るため、8人の家来たちが奮戦する物語である。8人の家来のことを八犬士と呼び、それぞれの名字の頭に“犬”の字が付いている。8人それぞれにキャラクターや特技があり、現代の少年漫画のように、それぞれにサイドストーリーや名場面が施され、読者を飽きさせない、多角的な魅力で、実に28年もかけて完結した。名シーンは浮世絵の題材にもなるなど、まさに一大ブームになった作品なのだ。現代になってからも、何度も映画化、舞台化がされており、普遍的な魅力のある物語だと言える。

 しかし、本居一門の名も無き弟子は、これをただのエンタメとは捉えていなかった。滝沢馬琴という人物を深く掘り下げ、また、物語には実は元になるストーリー、いわゆる種本が存在することを突き止めている。その種本こそが、里見氏と稲荷神社をつなげる最大の根拠となるのだ。


 数週間も暮していたわりに、私の荷物は、圧縮するとボストンバック2つ分ほどに落ち着いた。一つは送ってしまおうと、フロントで発送の手続きを済ませ、帰りはのんびり外房線で、荒々しい磯場の海岸線でも見ながらにしようと、館山駅に向かっていた。

 駅に近づくと、ロータリーに見覚えのある大きな車が着いていた。気づかないふりをするのも面倒なので、私の方から車に向かうと、残り10メートルになった辺りで、車からスーツの男が降りてきた。

「社長がお呼びです。」

 180センチはありそうな大男が小声でそう言うと、後部座席のドアを静かに開けた。何故か私は少しも躊躇することなく、車に乗った。不思議なのだが、こうなるような気がしていたのだ。この車に見覚えがあったのは、小林が送り迎えされているところをよく見ていたからだ。大男も何度か見かけたことがある。確か安房神社の神事の際にもいたような気がする。屈強な肉付きから、おそらくは小林の用心棒なのであろう。しかし、私への物腰はスマートそのものだった。

「小林はどこに?」

 後部座席から、助手席の大男に問いかけてみたが、返事はなかった。代わりに車が静かに発進し、大男は周囲を執拗に見回していた。行方不明で捜索中の小林が、部下をよこして私にアプローチをしてきたのだ。近くに政府の監視の目が無いわけがない。こちらの車が動き出すのとほぼ同時に、ロータリーの反対側に停まっていたバンと、少し先にいたセダンも動き出した。確実に山崎か永谷の部下だろう。そしておそらく、瞬く間に、私が小林と接触しているという情報が彼らに届いていることだろう。私はどちらからも狙われる身になったのだ。

 車は安定した速度で海岸線を北上し、海水浴場や温泉郷を通過していった。“観光地”のエリアを抜けると交通量が一気に減り、田舎の平日の昼間らしい、のんびりとした時間が流れ始めた。船形山が近くなり、そろそろ大きな漁港に出る、という辺りで、車は海岸沿いの道を折れ、内陸部へと向かった。運転手も助手席の大男も、先ほどからルームミラーでしきりに後部座席の私と、さらにその後にいるのであろう尾行車を確認している。車はきっと、この先、追っ手を撒きたいはずだ、そうするとこの辺りの細い道で急カーブや急旋回をするのだろう、なんてことをボーっと考えていると、車は速度を変えず、静かに道路沿いにあった倉庫のある敷地の中へ入っていった。ただし、車が敷地内に入りきると、すぐにその門が自動的に閉まっていた。これで後続の車を遠ざけるのには成功した。しかし、居場所がバレてしまったら、相手は国家権力だ。すぐにこの倉庫に踏み込んでくるに違いない。小林はこの倉庫のどこにいるのだろう。

 車はそのまま、敷地内の一つの大きな倉庫の中に入っていった。屋内に入っても車は速度を落とさず、グングン前進していった。この倉庫はそれほどに大きく、何も置かれていない空間なのだ。きっと飛行機の駐機場とはこのような場所なのだろうと、どうでもいいことが頭をよぎった。

 やがて車は、建物の、入ってきたのとは反対の端に到着した。今度は目の前の壁が自動的に開いた。開くとそこにはちょうど車一台が収まるくらいの箱があり、少ししてからそれがエレベーターだとわかった。箱に入ると、ようやく車は停車し、すぐに後の壁は閉じられた。私は車に乗ったまま、地下へ降りているのを感じていた。

「どこへ行くんです?」

 返事がないのは予想していたが、それでも思わず口をついて大男に質問した。この展開は少々意外だったのだ。もちろん、小林が簡単には見つからない場所にいるであろうことは想像出来た。しかし、ここまで用意周到な尾行を撒くシステムまで確立されているとは全く予想できていなかった。

 エレベーターが、目的階についたらしく、下降の気配が止むと、また前の壁が開き、今度は真っ直ぐ前に続く地下道が現れた。ちゃんと電気も点いているので、高速道路のトンネルのような印象だった。再び車は静かに発進し、先ほどと同じ速度で、一本道をただ真っ直ぐ前進していった。

 ルームミラーから、何か高級車に似つかわしくない人形がぶら下がっているのに、私はやっと気がついた。小林邸や安房神社で見つけた、あの千代紙で折られた“犬”の人形だった。

 私はさっきまでやけに落ち着いていたが、このときくらいから、ジワジワと足下から冷たいものが迫ってくる感覚があった。底知れぬ恐怖というのはこういう感覚なのだろうか?得体の知れないものへの恐怖である。

 海辺の田舎街だと思っていた場所が、その土地の名士だと思っていた男が、もっと巨大な組織の、もっと強大な存在であることに、ようやく私は肌感覚で、動物的に認識したのだった。

 数分も走ると、トンネルの終わりが見えてきた。トンネルは意外にも緩やかに外へと繋がっていた。トンネル内からは明るい空に見えたが、外界に出てよく見ると、やはり台風の影響なのか、灰色の薄曇りであった。道の両脇を深い緑の木々に囲まれた道をさらに進むと、目の前に、今度は大きな鳥居が見えてきた。それは安房神社の鳥居よりも二回りほど大きく見えた。車のまま鳥居をくぐり、さらに参道を進んでいくと、玉砂利の敷かれたエリアに入った。正面には何か赤い箱のようなものが見えた。

 車は静かに停まり、運転手も大男も同時に車を降りた。大男が後部座席のドアを開けてくれたので、私も素直に車を降りると、車内からはよくわからなかったが、赤い箱に見えていたものは、ずっと奥の方にまで無数に並んでいる赤い鳥居の一本道だった。

「ここから歩きで。奥で社長がお待ちです。」

 大男は簡単にそう言うと、さっさと先に歩いて行ってしまった。運転者はただ恭しくこちらに頭を下げている。鳥居は大男の身長とほとんど変らない高さなので、私は大男の頭が鳥居に当たらないかを気にしながら、その後を付いていくことにした。

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