4.暗闇の風
そこは不思議な空間であった。
明かりのない、冷たく粗野な岩に囲まれた洞窟の中なのだが、その岩の一つ一つが薄ぼんやりと、弱く発光しているようで、穴の奥までがおぼろげにだが把握できた。宇宙空間にいるようでもあり、家族が留守の日の押し入れの中にいるようでもあった。
そこには格式高い祭壇らしきものが設えてあり、豪勢な供物や、きらびやかな祭具が整然と並べられおり、異様なシチュエーションにあっても、何故か品の良さが感じられた。
そして、中でも最もよく目に入ったのは、祭壇の真上、洞窟の中心に、天井部分から吊り下げられている大きな家紋だった。丸に「二」の字のこの紋章は、館山に来るとたびたび目にするものではあったが、まさか山奥の神社の裏の洞窟の中でお目にかかるなど、想像だにしていなかった。
「里見氏・・・。」
先ほどまで、私の横でうずくまっていた小清水君が目を覚まし、顔を上げてすぐに、その家紋を見上げてから言葉にした。
あの家紋は、かつてこの安房の国を治めていた戦国大名、里見氏のものに間違いなかった。
かつて日本海軍が、この地に館山鎮守府を建設するために集めた金塊“雨宮資金”。政府の要請で集められた、その捜索チームの一人、地元市議会議員の小林が、どうやら“お宝”のありかを知っていると睨んだ私は、密かに小林の行動を追跡した。そして小林が、毎週水曜日の深夜、安房神社の本殿にて、何やら不可解な会合を開いていることにたどり着いたのだった。本殿の中で、いったい何が行われているのかを調べようと、そこに近づいたとところ、小林らに見つかり、まんまと囚われてしまったのだ。
手足を縛られ、猿ぐつわをはめられた私と小清水君は、本殿の祭壇の前に跪かされると、すぐに神官装束の男たちによる、怪しげな神事に巻き込まれた。社殿には、何等かの香が焚かれており、また、緩やかな雅楽が鳴りわたっていた。それに合わせて、祭壇の前の十数人の男たちは、各々が小声で、何やら呪文のような言葉を発していた。いろいろな言葉が並んでいたようだったが、私はその中に、たびたび「山犬」という言葉が混じっているように感じた。
そうだ。小林が私たちを捕らえ、縛り上げた際、部下である神官たちに向かい、確かにこう言っていたのだ。「山犬様にお供えしろ」と。
「山犬様」という言葉が耳に入ってきたときは、まず、誰かしら、人の名前なのか、その呼び名なのだと思っていた。しかしすぐに、それがどうやらそうでもないことがわかった。神事の最中に見上げた祭壇の上に、千代紙で折られた小さな犬型の人形が並んでいたのだ。「山犬様」は、きっと本当に「山犬」のことなのだ。
具体的にはわからないが、これは何かしらの信仰で、我々はこの後、“生贄”にされるに違いないと、私は直感していた。現代において、“生贄”などありえないことだとはわかっている。しかし、そのときの本殿の中の空気は、すでに現代のそれではなかったのだ。神官たちが全員、現代社会の中で、何等かの職に就き、日常生活を送っているに違いない。しかし、その姿より、今、この神事を預かっているときの姿こそが、彼らの本当の姿なのだと、強く確信できたのだ。そこには、“狂気”に近い “本気”があった。理屈では説明できないが、生物としての、相手の本性が嗅ぎ取れる能力が、私にそう教えてくれたのだった。
永遠に続くかのように感じられた、この祝詞の時間だったが、終わりを確認する前に、先に私たちが意識を失っていた。香の効果なのか、呪文によるトランスのためなのか、あるいはそれらの複合的な作用によってか、極度の緊張状態であったにも関わらず、おそらく数分で、私たちはすっかり、眠りの奥深くまで落とされていた。
そして、次に目に入ったのが、この洞窟の中だったのだ。
そんな状態なので、ここが本当に洞窟の中なのか、確証はない。しかし、夕べ小清水君と見た、神官たちの群れが社殿の裏の洞窟に入っていく様子の記憶と、ここに漂う怪しげな空気が、間違いなく同一のものであるとの自信があった。
ひんやりとしているようで、どこか、柔らかく湿度のある独特の空気の中、徐々に視界が慣れてくる。 祭壇は新しい白木で組まれており、天井の家紋も、比較的、新しそうな、綺麗な布で作られていた。
さて、掲げられた家紋の主、里見氏について、私の知っている限りのことを挙げておく。まず、中世から続く、この地の名門の一族で、外様でありながら、江戸時代には館山藩の藩主となった氏族だ。しかし、17世紀前半に改易となり、この地を去っているはずだった。それでも地元には、根強く里見氏を支持する層があり、南房総と言えば里見氏、というパッケージを、観光面でのアピールに使用し、今でもこの地ではネームバリューのある領主である。私の専門は現代史なので、武士の時代のことはそこまで詳しくない。しかし、この国の歴史は面白いほど、武士文化の痕跡を現代に残している。土地の歴史を調べていけば、その土地を治めていた領主がどんな人物で、下々の者にどのように思われていたのかまでが見えてくる。館山の海軍の歴史を調査するうえで、当然、館山という土地の歴史、文化、風土も調べたわけだが、そのときの私の印象は、とにかくこの地は、封建制度の名残が強く、また土地への愛着が強い、というものだった。これは多くの地方都市で見られる傾向なので、館山が特に、ということではないのかもしれない。しかし、房総半島の先にあり、中央の高い山々に遮られ、半島の付け根とも隔絶されていたこの地には、島と同じような独自の価値観が生成されていると感じた。そして、領主や為政者への忠誠心が強いのも、村社会での生き方ならではだと感じていた。
市議会議員であり、地元の大地主でもある小林の身辺を調査していても、その周囲の者たちの、小林に対する従順さに、この土地の価値観そのものの印象を受けた。小林家の影響下にある者たちは、小林自身に対してというより、土地に脈々と続く、小林一族への敬意が強いのだ。そして、どうやら、その一番の根拠になっているのが、この神社での神事にあるのではないかと、今は確信できている。
私たちはすでに、手足は解放されていた。なので、自由にポケットを探ることができたが、携帯や財布は取り上げられているようだった。またかなりの長時間、岩の上で寝かされていたようで、体中が痛かった。そのため、縛られていなくても、すぐに立ち上がり、全力で逃げ出す体力は残っていなかったのだ。
そもそも、これがあの洞窟なのだとしたら、重たい扉がしっかりと閉まっているはずで、どちらにしても、すぐにはここを出られないことは理解できた。
小清水君には悪いことをした。車を出してもらうだけだったはずなのに、ここまで突き合わせ、挙句、拘束されることになった。彼がいかに優秀な学生でも、この状態から無傷で脱出できる術は持っていないだろう。
少し、体が動かせるようになり、私たちは各々、上体を起こし、壁に寄りかかる姿勢になって、祭壇を見上げていた。閉鎖された密室のはずだが、どこからか生暖かい風が吹いてきて、それが顔に当たっている。風が、岩肌の冷たさと、あまりにも違う温度で、無意識に何か薄気味悪いものを感じていた。その風は、生暖かいだけでなく、まったりとした湿度を持ち、どこか獣臭い気がした。
風は祭壇の奥の方から流れてきていることに気付き、私は何気なく、祭壇の奥の空間に目を凝らした。時間が経つにつれ、生暖かい風は、さらに湿度を上げていった。始めは、祭壇が置かれているのが、洞窟の一番どん突きだと思っていたが、よくよく見ると、祭壇の向こうはより“黒”が深く、洞窟にはさらに奥がある、それもかなり遠くまで続いているのがわかった。そして、徐々に、そちらの方から、何か大きな“モノ”の気配を感じられるようになった。
小清水君も私と同じことを感じているようで、緊張した面持ちで洞窟のずっと奥を凝視していた。気が付けば、打ち合わせることもなく、私たちは少しずつ後ずさりを始めていた。まだ立ち上がって、駆け出すことはできそうにない。音を立てないように、ゆっくりと尻の位置をずらし、祭壇とは逆の、例の重たい扉があるであろう方向に、移動を開始していたのだ。祭壇の向こうに、確実に“何か”いる。
背中が壁に当たり、私も小清水君もこれ以上後退はできないところまで来た。手に触れている岩はまだ冷たく、少し湿っていた。私は、周囲の岩をまさぐり、つかみやすく、手に取れるサイズのものがないか確認していた。小清水君も私の動きを見て、同じようにしていた。祭壇の向こうの暗闇から、さらに濃い黒の、大きな影が近づいてくるのがわかった。そして“それ”は、低く呻いていて、そのたびに、生暖かい風がこちらに届く法則なのだと判明した。獣臭さが増し、薄ぼんやりとした視界の中で、それははっきりと、怪物の輪郭となった。
「山犬様・・・」
小清水君が小さくつぶやいた。
小林たちが神事の中で、繰り返し唱えていた言葉がプレイバックしてきた。比喩でもなんでもなく、それは本当に“山犬”のことだったのだ。
“山犬”はとっくに私たちの存在に気が付いているようで、じわりじわりと、こちらに近づいてきている。その呼吸は、獲物を捕らえて興奮しているのか、着実に激しく荒くなっていく。
“山犬”と聞いて、“犬”をイメージすると、それは大分間違っている。目の当たりにすると、それはどちらかと言えば“熊”に近い。暗闇の中でも、それが巨大で獰猛であることがしっかりと確信できた。そして、やはり我々は“生贄”なのだと理解できた。
“山犬”はペースを速めることなく、少しずつ前進し、やがて祭壇を崩して、こちら側へやってきた。祭壇には多くの食べ物が置かれていたが、そちらには全く興味がないようで、はっきりとは見えないが、それらはゆっくりと踏みつけられ、形を失っているようだった。
洞窟の中でも、その鼻先が湿っていることがわかった、そいつが一歩近づいてくるごとに、温度も湿度も確実に上がっていくのが皮膚でわかった。匂いも相当きつかったが、それは早い段階で、もう温度と同じ成分として私の中で処理されており、さほど気にならなかった。一瞬、そいつの目が光ったように見えた。そしてその光った目に、私がしっかりと捕らえられていた。ここまで一定のペースで歩み寄ってきた“山犬”だが、私たちの足元まで、もう5メートルの辺りまで来たときに、ピタっと動きを止めた。それは“静止”というより、“ため”に感じられるもので、エネルギーを充電するためのものだと感じた。つまり、この後、これまでのゆったりとしたペースからは想像もできない速さで、私たちのどちらかに飛び掛かってくるに違いないのだ。
ここまで私は、恐怖を感じながらも、しっかりと目を開けて、そいつを凝視していた。正確に言えば、目をそらすことができなかった。しかし、この最後の“ため”に入り、ついに私は目を閉じた。目を閉じても、暗闇なのは変わらなかったが、何故か、目を閉じた後の世界の方が、少しばかり明るかったような気がした。
獣の低い唸りと息遣いは、動きと反比例するようにどんどんと激しくなった。目を閉じたままでも、そいつが、牙をむき、そこによだれが滴っているのが想像できた。前足をかいて、後ろ足を十分に踏ん張り、今にも飛び掛かろうという体制をとっていることも、全身で感じ取れていた。
「来る・・・」
“山犬”がまさに飛び掛かるのが、どういうわけか私にはわかった。そして、さらに強く目を閉じたのだった。
「今だ!」
隣で小清水君が叫んだ。
目を閉じたままの暗闇いる私の中には、「?」が出るか出ないかくらいの刹那であった。
小清水君が私に覆いかぶさり、私はその衝撃で地面に激しくぶつかった。
次の瞬間、激しい爆発音とともに、何かが砕けるのがわかった。爆風を背中側から受けたので、それが外から内に向けての爆発だとわかったが、そんなことを考える間は実際にはなかった。岩や何かの欠片がどんどんと自分に当たり、降り積もっていくのがわかった。目は瞑っていたが、外の明るさと、清浄な空気の流入がしっかりと感じられた。
何が起こったかを確認できるまでに、おそらく5分以上はかかったのだろう。気が付いた時には、私は洞窟の中から引き出され、すべすべとした清潔なシーツの上に寝かされていた。私はそこでようやく目を開けたのだった。視界が定まると目の前にいたのは海上自衛隊の山崎だった。いつも大澤邸で会うときのようにラフな普段着ではなく、今は、しっかりと迷彩の隊服に身を包んでいた。山崎の隣には、私と一緒に被害にあったはずの小清水君が立っている。
「小清水君!無事か!」
私は身を起こそうとしたが、激しい痛みに軽く唸り、またベッドに倒れこんだ。小清水君はむしろ申し訳なさそうな表情で、
「先生こそ、大丈夫ですか?安静にしてください。」
と、冷静そのもの、無事そのものの声を私にかけてくれた。
これはいったいどういうことなのだろう。人生の中でも圧倒的に上位の衝撃を受けた後の私には、今の状況を理解するのにもう少し時間が必要だった。